
英彦山(1200メートル)は福岡県と大分県の県境にある山。
霊泉寺はその麓で天台宗英彦山修験道の法灯を守ってきた霊場です。
九州西国霊場~より
『概略』
英彦山 霊泉寺
(御朱印)

創建
531年 中国北魏の僧・善正上人
中興 弘仁10年(819年) 霊仙寺 法蓮上人
昭和30年(1955年)復興 霊泉寺と改称
宗派
天台宗英彦山修験道
ご本尊
英彦山三所権現曼荼羅
観音菩薩(中央)・阿弥陀如来(左)・釈迦如来(右)
千手観世音大士(九州西国霊場ご本尊)
ご真言
おん ばざら だるま きりく
千手観音について
別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によってどんな願いも見落とさず、悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。
蓮華王とは泰三界曼荼羅で観音が配される場所である「蓮華部」の中で、最高位となっています。
阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。
千手観音は、人々を救うための手が多い分、得られるご利益も多いと考えられています。そのため、災難除け、病気平癒などあらゆる現世利益を網羅しているのです。
そのご利益です。
厄災厄除・苦難除去・病魔退散・悪疫守護・諸願成就・平穏無事・頭痛平癒・病気(難病)平癒・奇病快癒
さらに、夫婦円満や恋愛成就、安産や子宝成就にも功徳があるとされていて、後生善処(ごしょうぜんしょと読みます。亡くなったあと来世でも幸せに過ごせることを言います。)などのご利益もあります。
また六観音(聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音または不空羂索観音・如意輪観音)の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。
餓鬼道に生まれ変わる人は、生前に自己中心的な生活を送っていたり、欲望のままに生きていた人々で、ノドの渇きも潤せず、食べることが叶わないため渇きと餓えに苦しみ続けると言われています。
住所・連絡先
福岡県田川郡添田町英彦山1240番地 TEL 0947-85-0061
(地図)
アクセス
JR日田彦山線彦山駅よりタクシーにて8分
九州自動車道、杷木ICから東峰村方面に向かい約35分
駐車場あり
ご詠歌

いさぎよき ひこのたかねの いけみずに すますこころを またはにごさじ
九州西国霊場とは
「九州西国霊場」は、今から1280年前の和銅6年(713年)に、宇佐の仁聞菩薩と法蓮上人により開創されました。
北部九州五県(福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県)に広がる山と海の観音道は、大いなる自然と豊かな歴史に彩られた、観音さまと出会う心の旅路です。
自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人の種田山頭火も「風の中 声はりあげて南無観音菩薩」と7年にかけて巡礼しました。
延べ1100キロの九州西国の巡礼を終えれば、しなやかな観音さまの心をいただき、観世音寺の日本最古の梵鐘の音が、しみじみと胸にしみてくるに違いありません。
神仏習合を今に残す修験の寺(第一番札所 霊泉寺)
英彦山(1200メートル)は福岡県と大分県の県境にある山。霊泉寺はその麓で天台宗英彦山修験道の法灯を守ってきた霊場です。
修験道とは、山岳信仰が仏教と結びついて生まれた日本独自の宗教です。
創建は仏教が正式に日本に伝わるより前の531年。
開山は中国北魏の僧・善正上人が英彦山内の洞窟に籠り、修業して仏教を広めたことと伝えられています。
修験道の始祖である役小角・えんのうづぬ(役行者・えんのぎょうじゃ)もこの地で修行したといわれ、九州西国霊場を開いた法蓮上人を中興の祖としています。
法蓮上人は宇佐神宮寺の初代別当を務め、宇佐や国東に神仏一体の信仰を広めたことで知られ、その功績により嵯峨天皇より寺領40町と、勅願寺の称号を賜わりました。
さて英彦山は「日の御子」(天忍穂耳命・あまのおしおみみのみっこと・英彦山神宮の主祭神)のおわす神聖な山として「日子(ひこ)の山」と呼ばれていましたが、弘仁10年(819)嵯峨天皇により「彦山」と改称されました。
彦山修験道は平安時代に栄えたといわれていますが、元禄9年(1696)には幕府より別格本山に認められ、霊仙寺は江戸時代中期には800の坊舎と、山伏ら僧衆3000を擁したと伝わり、盛んに「彦山まいり」が行われたました。
以来、英彦山修験道の法灯は連綿と受け継がれ現在に至っています。
明治元年(1968年)の神仏分離令により、英彦山の仏教伽藍や修験道祭祀具類は徹底して破却・廃棄されました。
英彦山中腹にあったかつての「霊仙寺」大講堂は、有名な戦国武将の細川忠興の建立で、現在では英彦山神宮の奉幣殿(国重要文化財)となり、英彦山神宮の本殿となりました。
一方、神仏分離令により仏教の法灯は途絶えてしまいました。
時を経て戦後の昭和28年(1953年)に宗教法人法が公布され、昭和30年(1955年)に山麓の銅鳥居(かねとりい)脇に、神社から独立して弥陀・釈迦・観音の三尊を本尊とする英彦山修験道「霊泉寺(霊仙寺から寺号変更)」が再興され、再び法灯は甦りました。
なお、英彦山は、江戸中期の享保14年(1729年)に霊元法皇の院宣で、それまでの彦山に『すぐれている』の意味を持つ『英』の字が冠せられたものです。

ちなみに英彦山神社参道入口に建つ銅鳥居は、寛永14年(1637年)、佐賀藩主の鍋島勝茂により寄進されたもので、こちらも国重要文化財にも指定されています。
青銅製で高さ6.9m、柱の周囲は3m余りあります。
鳥居正面に掲げられた「英彦山」の扁額は享保14年(1729年)に霊元法皇によって下賜されたものだそうです。

霊泉寺本堂は、さほど大きいものではありませんが、 ある意味英彦山全山がこのお寺の境内だとすると日本でも有数の規模のお寺ということになるのではないでしょうか。
南無根本伝教大師福聚金剛
英彦山神宮

英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和50年6月24日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。
英彦山神宮点描・無料配布
今般、ギャラリーサイトにて『英彦山神宮点描』と題したアルバムにて画像を無料配布させていただきました。
ショップにて、ロゴ無しの画像が無料にてダウンロード可能です。

次回は、九州西国霊場第二番札所「大久山 長谷寺」をお伝えしていきます。
願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌
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