九州西国霊場 第二十六番札所 円通山 観音寺

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九州西国霊場
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九州西国霊場 第二十六番札所 円通山 観音寺

伝えるところでは、円通山観音寺は和銅2年(709年)、「行基七観音」の内の一つ、千手観音を安置したことにはじまるとされています。観音堂は天明年間(1781年~89年)建立の総欅造りで、たくさんの彫刻が施されています。

九州西国霊場~より

『概略』

円通山 観音寺
(御朱印)

創建

和銅2年(709年) 行基菩薩

宗派

曹洞宗

別称

みさきの観音

ご本尊

千手十一面観世音菩薩(九州西国霊場ご本尊)

ご真言

おん ばざら だるま きりく

千手観世音菩薩について

別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によってどんな願いも見落とさず、悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。
蓮華王とは泰三界曼荼羅で観音が配される場所である「蓮華部」の中で、最高位となっています。
阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。

千手観音は、人々を救うための手が多い分、得られるご利益も多いと考えられています。そのため、災難除け、病気平癒などあらゆる現世利益を網羅しているのです。
そのご利益です。
厄災厄除・苦難除去・病魔退散・悪疫守護・諸願成就・平穏無事・頭痛平癒・病気(難病)平癒・奇病快癒

さらに、夫婦円満や恋愛成就、安産や子宝成就にも功徳があるとされていて、後生善処(ごしょうぜんしょと読みます。亡くなったあと来世でも幸せに過ごせることを言います。)などのご利益もあります。

また六観音(聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音または不空羂索観音・如意輪観音)の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。
餓鬼道に生まれ変わる人は、生前に自己中心的な生活を送っていたり、欲望のままに生きていた人々で、ノドの渇きも潤せず、食べることが叶わないため渇きと餓えに苦しみ続けると言われています。

住所・連絡先

長崎県長崎市脇岬町2330 TEL 095-893-0844
(地図)

アクセス

長崎自動車(長崎バス)で長崎駅前南口バス停から樺島、岬木場行きに乗車し、「観音寺入口」バス停留所下車、徒歩3分。
長崎市内より国道499号経由で車で約1時間。

ご詠歌

あまびとの かるもにすめる むしまでも ちかいにもるる ものやあるべき

1300年余の歴史を誇る長崎市近郊随一の古い寺(第二十六番札所 円通山 観音寺)

長崎半島(野母崎半島)の東海岸、脇岬海水浴場で知られる北方の殿隠山(とのがくれやま)の山裾にあるのが、和銅2年(709年)行基(ぎょうき)菩薩が開祖の観音禅寺(円通山観音寺)です。
平安時代末期に創建された古い寺院の跡に建立されたお寺だそうで、通称「みさきの観音」とも呼ばれ、古くから信仰を集めてきました。
1300年余の歴史を誇る長崎市近郊随一の古い寺です。
なぜ野母崎半島の先端にこんなりっぱな寺院があるのかというと、昔からこの港は重要な貿易港で中国へ渡る要地で、ここの港から再びここへ帰って来るように、ここの観音様に願をかけて礼拝したのだそうです。

昔から長崎からの参詣者も多く、唐人屋敷近くの十人町から、このみさきの観音様へと続く道を人々は「御崎道(みさきみち)」または「観音寺道」と呼ばれていました。
今も「みさきみち」と標された石碑が残っています。

世界文化遺産の軍艦島を眺めながら岬を巡りながら、東海岸へと車を進めると、小高い所に中国風の半円アーチ型の石門が迎えてくれます。


石門をくぐると剝き出しの一対の仁王像が参道の両脇を固めています。
以前は、豪壮な仁王門があり、その中に安置されていたようです。

さらに石段を上り、もうひとつ石の門をくぐると正面に観音堂があります。
現在のお堂は、江戸時代に再建されたもので、総欅造で屋根には鯱(しゃちほこ)を載せています。

九州西国霊場 第二十六番札所 円通山 観音寺

観音堂内陣の中央には厨子に納められた霊場ご本尊の千手十一面観音菩薩立像国指定重要文化財)が、周囲に四天王像、左右に眷属である二十八部衆に囲まれて安置されています。
その千手十一面観音様は平安時代末期にされたもので、像高は2m半に近く、桧材の一木造りで、九州では珍しい大きな尊像です。
通常は秘仏で月に一回、18日に御開帳されます。
お姿は、頭上に十一面を戴き、頬の張りも豊かで、おだやかに見おろす円満な面相はいかにも藤原彫刻のふくよかさを伝えています。
福岡は太宰府の観音寺、大分の富貴寺(ふきでら)、京都の仁和寺(にんなじ)にも千手観音像があるが、この観音像も同時代頃のものだそうです。

観音堂のもうひとつの見所は、県指定有形文化財となっている内陣天井の150枚の天井絵(花卉図)です。
長崎奉行お抱え絵師の石崎融思をはじめ石崎融済石崎融吉やシーボルトのお抱え絵師の川原慶賀など幕末の長崎画壇を代表する画家たちで、洋画の技法も取り入れた長崎ならではの日本画です。
弘化3年(1846年)に長崎の信者の飛鳥井氏が先祖の菩提を弔うために奉納しました。

観音堂の参拝を終えて境内に戻ると観音堂横には豪潮様式の宝篋印塔が建っています。
およそ190年前に建立された宝篋印塔で、全国に200余基の塔を建立したと言われる熊本の僧、豪潮の作と伝わっています。

その他、長崎の人々が参拝していた証拠に、境内には長崎の町人が寄贈した「石灯籠(いしどうろう)」や本堂の「太鼓」、「梵鐘(ぼんしょう)」などが残されています。

最後にその屋根の反りが美しい、どっしりとした本堂への参拝を済ませました。

創建当初は真言宗のお寺だったそうで、当時は現在地より北へ1キロほど行ったことろにありました。
山の麓から浜辺にかけて堂塔伽藍の並ぶ大寺だったと伝わりますが、現在もその伽藍の豪壮さが往時をを偲ばせています。

行基七観音

行基は、九州北部の七ヶ所を訪ね歩き観世音菩薩の木造を七体彫りました。
奈良時代の初め、天皇の命により仏教布教のため諸国を廻っているときに、肥後の国宇土郡で橋の袂で苦しんでいた娘を介抱し、村人から大川に架かる橋が、通行人に祟っていると聞きました。村人の話によると、この橋の材料となった大木は、遠く朝鮮半島の百済から大津波により流され、この地で橋にされたと言います。

行基菩薩は、「橋というものは人を渡して多くの人を助ける慈悲の心がなければならぬのに、人に祟るとはなにごとぞ、仏に代わって汝を七つに切り海中に投じ流れ着いた所を仏縁の地とし観音を刻んで人々を救う霊場としよう」と言って、錫杖で、はっしと打たれると橋げたは七つに割れて海上を流れていったそうです。
行基菩薩は、流れ着いた浦々を廻り、観音を刻んで本尊として霊場を開かれた。その霊場とは下記の通りです。

1)熊本県宇土郡岩戸観音
2)佐賀県藤津郡竹崎観音
3)長崎県南高来郡堂崎観音
4)長崎県北高来郡田結観音
5)長崎県西彼杵郡脇崎観音
6)長崎県佐世保市福石観音
7)長崎県北高来郡和銅寺観音

南無釈迦牟尼仏 南無高祖承陽大師道元禅師 南無太祖常済大師瑩山禅師

観音寺のある長崎半島(野母崎半島)は水仙や世界文化遺産ともなっている軍艦島(正式には端島)などがあり、長崎県では観光地となっています。
軍艦島という小さな海底炭坑の島は、岩礁の周りを埋め立てて造られた人工の島です。
岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。

九州西国霊場 第二十七番札所 福石山 清岩(嵓)寺

次回は九州西国霊場「第二十七番札所 福石山 清岩寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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