九州三十三観音霊場 第二十二番札所 月圭山 芳證寺

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九州三十三観音霊場
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九州三十三観音霊場 第二十二番札所 月圭山 芳證寺

芳證寺は、細川忠興の二男・細川興秋が創建したキリシタン寺であった長興寺薬師堂が寺の始まりと伝わっています。天草の乱後、天草が天領となり赴任した初代代官の鈴木三郎九郎重成が戦乱により疲弊した天草の平和と再建を願い自らの城を寄付し出来ました。

『概略』

月圭山 芳證寺

創建

正保2年( 1645年) 開基 鈴木重成 公・開山 中華珪法

宗派

曹洞宗

ご本尊

釈迦牟尼如来

釈迦如来について

釈迦如来は、古代インドの小国の釈迦族の王子として、本名はゴータマ=シッダールタです。妻や子供もいて実在しましたが、28歳で王位継承者の地位を捨て、四苦(生・老・病・死)から解放される道をもとめ、各地の先覚や修行者を訪れ、6年にわたる苦行を経てガヤー村の菩提樹の下で大悟を得て仏陀(覚者)となった仏教の始祖です。
釈迦如来とはその釈迦が悟りを得た姿をあらしています。
また釈迦如来は、唯一現世で悟りを開いた人物とされています。

釈迦は、母である摩耶夫人の右わきから生まれたといわれています。また、生まれたばかりのとき、7歩歩いたあと天地を指さし「天上天下唯我独尊てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言われたことは有名です。
この世で1番尊いのは自分であるという意味に誤解されがちですが、ひとりひとりが尊い命で聖なる使命を持ってこの世に生まれてきたという意味です。
このときの姿をあらわしたものが、4月8日の花まつり(仏生会・灌仏会(ぶっしょうえ・かんぶっえ))に祀(まつ)られ、誕生釈迦仏と呼ばれています。

29歳で出家し、35歳で悟りを開き真理に目覚めてからは、仏陀(ぶっだ)・釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん、釈迦族の聖者という意味)・釈尊(しゃくそん)、如来などと呼ばれるようになりました。
この頃は人々に説法を説いていたそうです。

その後、45年間インドの諸国を説法して巡り教えを広めましたが、80歳に達した釈迦は死期を悟られ、クシナーラー域外の沙羅双樹下でかけつけたお弟子達に囲まれながら最後の説法を行い、自ら頭を北にし顔を西に向け横臥の姿で入寂され涅槃に入られたと伝えられています。

また釈迦如来を中心に文殊・普賢菩薩を脇侍とする釈迦三尊像も多くみられます。
密教尊としての釈迦如来は、人々を救済し、なすべきことを成就し、煩悩を消滅し涅槃を得る大日如来の智徳をつかさどる仏となっています。

悟りを開いた釈迦如来が残した様々な教えや言葉はお経として現在も使われています。

ご真言

のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

住所・連絡先

熊本県天草市五和町御領6610 TEL 0969-32-0359
(地図)

JR熊本駅より本渡バスセンター行き
富岡港行きバスに乗り換えて御領中央下車 徒歩2分
車の場合九州自動車道松橋インターより天草パールライン経由1時間45分

境内脇に駐車場有り

ご詠歌

ははのなを よびつつゆきし ますらおの みたまにひびけ みほとけのかね

細川家にもゆかりの寺(第二十二番札所 月圭山 芳證寺)

芳證寺は全体が御領城跡です。
御領城は16世紀頃支配していた志岐氏の支城で、麓集落内に築かれた平城的なもので城と集落が一体化した典型的な総構えの「里の城」でした。
その名残として古井戸が残っています。
志岐氏は富岡城(現・苓北町)を居城として天草下島の北部を支配し、天草五人衆にも数えられた豪族。十六代目の鎮経(しげつね)はキリシタン大名でもあり、彼の信仰がもとで天草にキリスト教が広まったといわれています。
後にキリシタン教会が建ち、鈴木重成時代には茶屋がおかれ、その後に重成が呼び寄せた禅僧・中華珪法により建立されたそうです。
両親の菩提寺として父の戒名「月厳證心居士」・母の戒名「圭壁貞芳大姉」より一字ずつとり、月圭山芳證寺と名付けられました。
山門の扁額の寺号文字は、鈴木重成の筆跡だそうです。

九州三十三観音霊場 第二十二番札所 月圭山 芳證寺

さて、芳證寺は戦国大名の細川氏の細川忠興との関係もあります。

細川忠興とガラシャ夫人との間にできた次男で、大坂の陣の豊臣方に参陣し、敗戦後切腹したとされるた興秋が生き延びて住んだ場所といわれるのが、天草・御領村です。
興秋は御領城のすぐそばに長興寺薬師堂を開き、住職になっていたと伝わります。(諸説あり)
キリシタンの宣教師であった興秋はまもなく起こった天草の乱には地元御領周辺のキリシタンたちを説得し、乱には参加させませんでした。
乱が平定された後、天草は天領となり、初代代官として鈴木三郎九郎重成が着任し、天草の戦災による疲弊ぶりを見てとても嘆かれたようです。

重成は薬師堂住職が細川家の興秋であることに気づきましたが、事を荒立てることを嫌い、このことは内密にしていたそうです。
そして細川家と興秋を守るため、興秋の潜んでいた長興寺も芳證寺に合併しました。
山門をくぐり階段を登り、境内に入ると左手に興秋の事柄を記した石碑を見ることができます。

正面には本堂があり、ご本尊の釈迦牟尼仏がお祀りされています。
本堂にて、とても気さくなご住職夫妻と談笑させていただき、御朱印もいただき、境内に戻りました。

境内には、本堂向かって左手に芳證寺衆寮堂があり、市指定文化財となっています。
江戸時代後期に建てられ、修行僧の生活の場でありましたが、明治8年に御領村が小学校の校舎として借り受け、約6年間使用されました。
その証に、当時の借用書が芳證寺に残っているそうです。
当時の学校の姿がよく保存されている貴重なものであり、現在は五和町の小学生を対象にした寺子屋体験学習が行なわれ、人々に親しまれています。

最後に境内にある霊場のご本尊にお参りして、禅宗の寺院らしく整えられたお庭を拝見しながら、参拝を終えました。

霊場ご本尊 聖(しょう)観世音菩薩について

別名、観音菩薩(かんのんぼさつ)とも呼ばれ、人々を常に観ていて救いの声(音)があれば瞬く間に救済する、という意味からこの名が付けられ日本でも多く信仰されました。
六観音の一つに数えられ、地獄道に迷う人々を救うとされています。
苦しんでいる者を救う時に千手観音や十一面観音などの六観音や三十三観音など、様々な姿に身を変えて救いの手を差し伸べます。
それら変化観音と区別するために変化観音に対して、変化しない観音をいい、また一番もとの観音(本来の姿の観音)という意味で、聖観音と呼ばれるようになりました。
単独で祀られることも多いのですが、阿弥陀如来の左脇侍として勢至菩薩と共に三尊で並ぶこともあります。
ちなみに般若心経は観音菩薩の功徳を説いたものです。

ご真言

おん あろりきゃ そわか

南無高祖承陽大師

次回は、九州三十三観音霊場 第二十三番札所「雲仙山 満明寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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