興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
『概略』
龍雲山 興禅院
創建
建徳元年(1370年) 無着妙融 禅師
宗派
曹洞宗
ご本尊
釈迦牟尼如来坐像
釈迦如来について
釈迦如来は、古代インドの小国の釈迦族の王子として、本名はゴータマ=シッダールタです。妻や子供もいて実在しましたが、28歳で王位継承者の地位を捨て、四苦(生・老・病・死)から解放される道をもとめ、各地の先覚や修行者を訪れ、6年にわたる苦行を経てガヤー村の菩提樹の下で大悟を得て仏陀(覚者)となった仏教の始祖です。
釈迦如来とはその釈迦が悟りを得た姿をあらしています。
また釈迦如来は、唯一現世で悟りを開いた人物とされています。
釈迦は、母である摩耶夫人の右わきから生まれたといわれています。また、生まれたばかりのとき、7歩歩いたあと天地を指さし「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言われたことは有名です。
この世で1番尊いのは自分であるという意味に誤解されがちですが、ひとりひとりが尊い命で聖なる使命を持ってこの世に生まれてきたという意味です。
このときの姿をあらわしたものが、4月8日の花まつり(仏生会・灌仏会(ぶっしょうえ・かんぶっえ))に祀(まつ)られ、誕生釈迦仏と呼ばれています。
29歳で出家し、35歳で悟りを開き真理に目覚めてからは、仏陀(ぶっだ)・釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん、釈迦族の聖者という意味)・釈尊(しゃくそん)、如来などと呼ばれるようになりました。
この頃は人々に説法を説いていたそうです。
その後、45年間インドの諸国を説法して巡り教えを広めましたが、80歳に達した釈迦は死期を悟られ、クシナーラー域外の沙羅双樹下でかけつけたお弟子達に囲まれながら最後の説法を行い、自ら頭を北にし顔を西に向け横臥の姿で入寂され涅槃に入られたと伝えられています。
また釈迦如来を中心に文殊・普賢菩薩を脇侍とする釈迦三尊像も多くみられます。
密教尊としての釈迦如来は、人々を救済し、なすべきことを成就し、煩悩を消滅し涅槃を得る大日如来の智徳をつかさどる仏となっています。
悟りを開いた釈迦如来が残した様々な教えや言葉はお経として現在も使われています。
ご真言
のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
住所・連絡先
大分県由布市湯布院町川南144-1 TEL 0977-84-2543
(地図)
アクセス
JR九大本線・由布院駅より徒歩15分
九州横断バス由布院営業所より徒歩20分
門前に駐車場有り
ご詠歌
ゆめにても ふたたび参る いんがなり ゆかしさつのる みほとけのます
人気の温泉地、由布院に(第十五番札所 龍雲山 興禅院)
室町時代の頃、最初、興禅院は鶴見岳の麓に創建され、文明5年(1473年)に現在地に移転したそうです。
普通お寺は山門へは上り坂や石段を上がるところが多いのですが、ここ興禅院はゆったりとした下り坂の下に山門があります。
両脇の仁王像に迎えられ、山門をくぐると、正面に本堂があります。
建徳元年(1370年)大内義興の発願により、無着禅師を招き建立しました。
全盛時代には、由布院内に末寺が29ヶ寺あり、長く仏教の中心的存在でした。
その後、度々火災に遭い再建を繰り返してきまし、昭和48年(1973年)の大火の後に再建されたのが現在の本堂だそうです。
本堂の参拝した後、境内をのんびりと散策しながら、境内に安置されている禅海・お弓の像、十三仏、十六羅漢、観世音菩薩、子安観音像、キリシタンの墓、六地蔵、カーンの板碑、馬頭観音像など参拝しました。
そして最後に今回の参拝の主たる目的の九州三十三観音霊場のご本尊の聖観音様(ぼけ封じ観音)にお参りをしてこの日の巡礼を終えました。
霊場ご本尊 聖(しょう)観世音菩薩について
別名、観音菩薩(かんのんぼさつ)とも呼ばれ、人々を常に観ていて救いの声(音)があれば瞬く間に救済する、という意味からこの名が付けられ日本でも多く信仰されました。
六観音の一つに数えられ、地獄道に迷う人々を救うとされています。
苦しんでいる者を救う時に千手観音や十一面観音などの六観音や三十三観音など、様々な姿に身を変えて救いの手を差し伸べます。
それら変化観音と区別するために変化観音に対して、変化しない観音をいい、また一番もとの観音(本来の姿の観音)という意味で、聖観音と呼ばれるようになりました。
単独で祀られることも多いのですが、阿弥陀如来の左脇侍として勢至菩薩と共に三尊で並ぶこともあります。
ちなみに般若心経は観音菩薩の功徳を説いたものです。
ご真言
おん あろりきゃ そわか
南無高祖承陽大師
興禅院は耶馬渓にある「青の洞門」を完成させた禅海和尚の得度の寺としても知られています。
禅海和尚は、
諸国巡礼の途中、この地で鎖渡しの難所に苦しむ人々を見て隧路開さくを決意し、風雪にも、嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年、ついに洞門を完成させた。
という逸話が残っています。
次回は、九州三十三観音霊場 第十六番札所「立護山 満願寺」をお伝えしていきます。
願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌
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