九州八十八ヶ所百八霊場第七十七番札所 高野山 最教寺

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九州三十三観音霊場
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最教寺は、大同元年(806年)弘法大師が唐から帰朝した時、初めて護摩を焚いたところといわれています。現在奥の院には大師の護摩石坐禅石があり住時をしのぶことができます。 慶長12年(1607年)初代平戸藩主松浦鎮信が高野山最教寺を復興、真言教学の学問所である談義所を合併し大和国長谷寺の空盛上人を中興開山として招きました。

九州八十八か所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~より

『概略』

高野山 最教寺
(御朱印)

別称

西高野山

創建

慶長12年(1607年) 中興開山 空盛上人

宗派

真言宗智山派

ご本尊

虚空蔵菩薩坐像(本堂 九州八十八ヶ所百八霊場ご本尊)

ご真言

のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか

弘法大師坐像(奥之院)

ご宝号

南無大師遍照金剛

虚空蔵菩薩について

虚空蔵菩薩は、大日如来の福智の二徳をつかさどっている仏といわれています。一般には「智恵を授かる仏さま」として人々より信仰をあつめています。
虚空蔵とは、虚空が広大ですべてのものを包み込み蔵しているように、無量無辺の福徳や智恵をそなえ、人々に常にこの二つの徳を与えて、諸々の願いを満たす大慈大悲の菩薩といわれています。
そして像容は、1つの顔に2本の腕を持つ、菩薩形の像で、右手に剣、左手に如意宝珠を持っているのが一般的です。これは、虚空(無限の宇宙)から恵みを生み出すという意味からです。
さらに五仏宝冠を戴いた坐像として表現されることが多いです。

真言宗の開祖・弘法大師は虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を行ったそうです。
この修業は、無限の記憶力がつき、仏の智慧を体得することができるといわれています。

虚空蔵菩薩のご利益は、頭脳明晰、成績向上、記憶力増進、技芸向上、商売繁盛です。そして、丑(うし)・寅(とら)年生まれの人の守護本尊ともなっています。

関西を中心に「十三参り」という風習が残っていますが、十三参りは、数え年十三歳になった子供が虚空蔵菩薩様をご本尊とするお寺にお参りをするという風習で、知恵を授かるという願いが込められています。
京都では、陰暦3月13日(現在は新暦の4月13日)に、数えで13歳の少年・少女が知恵を授かるため、嵯峨法輪寺の虚空蔵様に参詣します。
もとは境内で売っている13品の菓子を買い、虚空蔵菩薩にお供えしたのち、家に持ち帰って家じゅうの者で食べていたそうです。
帰途は、嵐山の渡月橋を渡るときに振り返ると授かった知恵がなくなるという言い伝えが今でも残っています。

住所・連絡先

長崎県平戸市岩の上町1206 TEL 0950-22-2469
(地図)

アクセス

JR佐世保線佐世保駅から西肥バス平戸行、平戸バスターミナル下車、徒歩15分
車の場合、国道204号線から平戸大橋を渡り、平戸市内へ。寺標を左折する
境内横に駐車場あり

ご詠歌

ありがたや ここはさながら 高野山(たかのやま) 大師の恵み 深き談議所

他の霊場札所

九州三十三観音霊場第三十番札所

霊場ご本尊 奥之院 聖観世音菩薩

ご詠歌

補陀落や 深山の谷に 霧はれて 心の水に うつる御影

ご真言

おん あろりきゃ そわか

西の高野山(第七十七番 最教寺及び奥之院)

福岡から車を走らせること約3時間、真っ赤な平戸大橋を渡ると平戸島です。

平戸は、海外交流の窓として世界に開かれ、国際貿易都市として、徳川幕府が海外貿易との拠点を長崎・出島一ヶ所に制限するまでのおよそ90年間、ポルトガル、イギリス、オランダなどのヨーロッパの国々と親密な交わりを持っていました。そのため、ヨーロッパ諸国との交流の跡が、今もなお市内のあちこちに点在し、エキゾチックな雰囲気のある島です。

そんな土地柄、奈良・平安時代には遣唐使船の寄港地として、多くの若者たちが夢とロマンを胸に風待ちした港でもありました。
大志を抱いた弘法大師もそのような若者の中のひとりでした。

ここ最教寺は806年、弘法大師が真言密教を修め、唐から帰朝した際に初めて護摩を焚いたところと言われています。

広くスペースのとってある駐車場に車をおいて歩き出すと最教寺全体の案内看板があります。

愛染堂の脇から続く「八十八所苔の参道」を5分ほど登ると奥之院の境内です。

正面には入母屋造りの壮大な奥之院本殿(御影堂)、こちらが八十八所の札所となります。
その左手には、高さ33.5mで我が国最大の規模の三重塔が聳えています。

地下は真っ暗闇の中を歩く、胎蔵界巡りになっています。
そして最上階の第三層からの眺めは素晴らしく、街並み・平戸城・海が視界に広がり、一目で『平戸』を満喫できる感じです。

本堂域

最教寺全体の案内看板から入ればすぐに境内、そして本堂へと伺えるのですが、少し下って本来(?)の参拝ルートをたどることにします。

楠の大木が両側から生い茂る石段を上り

1774年建築という歴史の漂う切妻造の山門をくぐると

正面が本堂です。
こちらにはご本尊・虚空蔵菩薩坐像が安置されています。

本堂の向かい宝物館には、最教寺を復興したと伝わる平戸藩主・松浦(まつら)鎮信公が寄進した物を中心に最教寺に伝わる貴重な宝物で国の重要文化財でもある絹本着色仏涅槃図や釈迦誕生図、十六羅漢図、釈迦涅槃像などが収蔵されています。
一連の参拝の前に、山門左手にある「霊宝館(入館料 400円 奥之院三重塔内参拝と共通券)」にまず立ち寄ります。
こちらで納経朱印の受付をしています。さらに次の開元寺は、拝所のみのため併せてこちらで納経朱印もお願いします。

さぁ、寺域3万坪と言われる境内のお参りです。
まずは、本堂、そして本堂の左手にある愛染堂とお参りをします。

本堂には、ご本尊の虚空蔵菩薩、愛染堂堂内にはもちろん愛染明王様が奉安されていました。

愛染明王について

愛染明王(あいぜんみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つです。
大日如来は金剛界と胎蔵界に分かれますが、金剛界を代表する明王が不動明王で、胎蔵界を代表する明王が愛染明王だそうです。
仏教では愛欲は煩悩の1つであり、煩悩を捨てることが悟りを開く道であるとされていました。
しかし密教では「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という煩悩があるからこそ、人々から悟りを求める心が生まれると考えられています
その教えを象徴したのが愛染明王であり、愛欲・煩悩を悟りを求める心に導き、様々な悩みを救ってくれるとされています。

愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相で、頭には獅子の冠をかぶり、宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしておられます。
その身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多いようです。
そして、愛染明王は一切衆生を諸々の苦悩から救うために十二の広大な誓願を発しているとされ、その内容は以下のようです。

1.智慧の弓と方便の矢を以って、衆生に愛と尊敬の心を与えて、幸運を授ける。
2.悪しき心を加持して善因へと転換し、衆生に善果を得せしめる。
3.貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩を打ち砕いて、心を浄化し、浄信(菩提心)を起こさしめる。
4.衆生の諸々の邪まな心や、驕慢の心を離れさせて、「正見」へと向かわせる。
5.他人との争いごとの悪縁を断じて、安穏に暮らせるようにする。
6.諸々の病苦や、天災の苦難を取り除いて、信心する人の天寿を全うさせる。
7.貧困や飢餓の苦悩を取り除いて、無量の福徳を与える。
8.悪魔や鬼神・邪神による苦しみや、厄(やく)を払って、安楽に暮らせるようにする。
9.子孫の繁栄と、家運の上昇、信心する人の一家を守って、幸福の縁をもたらす。
10.前世の悪業(カルマ)の報いを浄化するだけでなく、信心する人を死後に極楽へ往生させる。
11.女性に善き愛を与えて良い縁を結び、結婚後は善根となる子供を授ける。
12.女性の出産の苦しみを和らげ、その子のために信心すれば、子供には福徳と愛嬌を授ける。

そのご利益としては、良縁、結婚成就、夫婦円満、無病息災、延命、戦勝、染物屋・水商売守護とされています。

ご真言

おん まからぎゃ ばざら しゅうにしゃ ばざら さとば じゃく うん ばん こく

その愛染堂の参拝を終えて、左手の参道より奥の院を目指します。

奥の院への参道

六地蔵石塔の脇を抜け

奥の院へと続く参道の途中には、鎮守社の稲荷神社。

そしてその両側には四国八十八ヶ所の苔むしたご本尊の石仏が居並んでいました。

五分ほど上ると長い石段が待ち受けていました。

その石段を上らずに少し先に進むと復興建立の松浦鎮信公の墓所があります。

石段を上ればいよいよ奥の院域です。正面には弘法大師坐像ををご本尊とする奥之院本堂、そして左手に朱色も鮮やかな三重塔が迎えてくれます。

奥の院域

さて国内でも最大級といわれる三重塔の中に入りましょう。

塔内に入れば、第一層「明王威力殿」。
ご本尊は不動明王様(秘仏)
ご真言:のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろ しやだ そわたや うんたらた かんまん

そして第二層「墨華秀麗殿」。
ご本尊は地蔵菩薩半跏像
ご真言:おん かかかび さんまえ そわか

私が参拝した時は奥之院本堂改修中のためか三重塔第二層に霊場ご本尊のボケ封じの聖観世音菩薩様が安置されていました。

さらに第三層「雄健涅槃殿」と内容の濃い堂内です。
ご本尊は阿弥陀如来
ご真言:おん あみりた ていぜい から うん

なお奥の院のご本尊の弘法大師様は秘仏となっていますが、京都東寺御影堂のご本尊と同形だそうです。

奥の院境内に戻ると、弘法大師が唐より帰朝の折、初めて護摩を焚いたと伝えられている護摩石。

そして座禅石。

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こちらが「西の高野山」と呼ばれる所以ともなっている遺蹟にその歴史を偲ぶことができます。

南無大師遍照金剛

当時この地には曹洞宗の勝音院という寺院があり、鎮信は改宗または移転を要望したが住職の竜呑はこれを拒否し、最終的に鎮信は勝音院を住職諸共焼き払ってその跡地に最教寺を復興したという。
その後、鎮信はしばしば竜呑と弟子の英鉄の霊に悩まされていたが、ある時当寺に参詣していたところ、赤子の泣き声で亡霊が退散しその後悩まされることがなくなったという言い伝えがあり、当寺ではこれを起源とする「子泣き相撲」が毎年2月3日の節分の日に行われている

その勝音院の本尊の薬師如来は、その後九州八十八ヶ所百八霊場第七十八番札 所医王山 浄漸寺に移され、焼薬師如来と呼ばれるようになり、現在でも「鎮西薬師」として多くの信仰を集めています。
浄漸寺はすでの公開してありますのでご参照ください。

また「子泣き相撲」についても当方の別ブログにて公開しておりますので、ご参照ください。

次回は九州八十八ヶ所百八霊場第七十八番札所「入唐山 開元寺」をお伝えします。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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