九州八十八ヶ所百八霊場 第七十一番札所 医王山 浄漸寺 鎮西薬師

スポンサーリンク
九州八十八ヶ所百八霊場
スポンサーリンク
九州八十八ヶ所百八霊場第七十一番札所 医王山 浄漸寺 鎮西薬師

奈良時代の養老2年(718年)行基菩薩は、東大寺勧進のため全国を巡錫し、速木(現在の早岐)を訪れた折、楠木の霊木で薬師如来を刻み、堂宇を建立したのが浄漸寺の起源とされています。以来、霊験あらたかな薬師如来として隆盛をきわめていました。

九州八十八か所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~より

『概略』

医王山 浄漸寺 鎮西薬師
(御朱印)

創建

養老2年(718年) 行基菩薩

宗派

真言宗智山派

別称

鎮西薬師

ご本尊

薬師如来坐像(九州八十八ヶ所百八霊場ご本尊)
(お御影)

ご真言

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

薬師如来について

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじる心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

日光菩薩・月光菩薩

この二尊はそれぞれ単独で信仰されることはありません。
常にペアで薬師如来様をお護りされています。
通常は向かって右側(左脇侍)に日光菩薩、左側(右脇侍)に月光菩薩が左右対称に配されています。
日光菩薩は日光遍照とも呼ばれ、千の光を放ち天下を照らし衆生を救済するお役目があります。一方、月光菩薩は月光遍照とも呼ばれ、薬師如来様の正しい教えを守るお役目を担っておられます。
両菩薩ともに衆生の不安や苦しみ、謂わば闇の部分に昼夜分かたずひかりを照らしておられます。
その象徴として、日光菩薩は太陽・日輪、月光菩薩は月・月輪を手にした蓮華にのせられています。(宝冠に太陽、月を表す場合もあります)

日光菩薩 ご真言

おん そりや はらばや そわか

月光菩薩 ご真言

おん せんだら はらばや そわか

十二神将

薬師如来様に付き従うガードマン的存在の一団です。
と同時に経典を読む人々を守るという役目も担われています。
十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るといわれています。そのため中国や日本では十二支が充てられています。その割り当てには解釈の違いによって諸説ありますのでご注意ください。当ブログでは混乱を避ける意味から、敢えて割り当てられた十二支は省かせていただいております。
平安時代以降、頭上に標識として干支の動物を掲げている像が一般化され、十二支の彫刻がないものを古様、あるものを新様といいます。
さらに十二神将にはそれぞれ如来・菩薩・明王が化身されたものと言われています。

十二神将とご真言

宮毘羅大将(金毘羅童子、宮比羅)(くびらたいしょう)
   おん くびら そわか

伐折羅大将(金剛力士)(ばさらたいしょう)
   おん ばさら そわか

迷企羅大将(めきらたいしょう)
   おん めきら そわか

安底羅大将(あんてらたいしょう)
   おん あんて(ち)ら そわか

頞儞羅大将(あんにらたいしょう)
   おん あんにら そわか

珊底羅大将(さんていらたいしょう)
   おん さんて(ち)ら そわか

因達羅大将(帝釈天)(いんだらたいしょう)
   おん いんだら そわか

波夷羅大将 (はいらたいしょう)
   おん はいら そわか

摩虎羅大将(まこらたいしょう)
   おん まこら そわか

真達羅大将(緊那羅)(しんだらたいしょう)
   おん しんだら そわか

招杜羅大将 (しょうとらたいしょう)
   おん しょうとら そわか

毘羯羅大将(びからたいしょう)
   おん びから そわか

住所・連絡先

長崎県佐世保市上原町510 TEL 0956-38-2473
(地図)

アクセス

JR佐世保線佐世保駅から西肥バス、二本松バス停下車、徒歩10分
車の場合、国道35号線の上原台交差点を団地の方へ登り、一筋目を左折し、あとは一本道で内前に至ります。バスは上原団地内の上の方で駐車、徒歩6~7分
境内手前に駐車場有

ご詠歌

浄漸の 薬師の み前に 巡り来て 瑠璃の光に 消ゆる 罪とが

鎮西薬師(第七十一番 浄漸寺)

行基菩薩が東大寺勧進のため全国を巡錫し、速来(現在の早岐)を訪れた折、楠木の霊木で薬師如来を刻み、堂宇を建立したのが、ここ浄漸寺の始まりだそうです。

当時は早岐小学校近くの百段石と呼ばれているところに境内があったそうですが、火災や廃仏毀釈による廃寺などの末、明治に入り現在地に再建されました。

山門のない石段を上ったところの正面に入母屋造の本堂があり、薬師如来作の薬師如来がご本尊としてお祀りされているそうですが、秘仏となっていて残念ながら直接拝することは出来ません。
ただお前立として写真が置かれているのでご尊像を想像しながらの参拝となりました。

九州八十八ヶ所百八霊場第七十一番札所 医王山 浄漸寺 鎮西薬師

境内には天を突くような大きな楠が立っていて、とても開放的な空気が漂っています。

そんな境内に点在する石仏も味わい深いものが多く、とりわけ稚児大師はとても愛らしいお姿で立っておられました。

最後に余談ではありますが、浄漸寺は紅葉スポットでもあり。毎年「紅葉まつり」も開催されているそうです。

南無大師遍照金剛

浄漸寺には、ご本尊の薬師如来ともう一尊文化財としての価値が見出されている「金銅薬師如来坐像」が本堂の左側の別堂に祀られています。
この座像は「焼薬師如来」と呼ばれている大きな座像で、以下のような逸話が残っています。

松浦鎮信(法印1549年~1614年)の時代に、平戸に曹洞宗勝音院という寺がありました。
その寺の本尊であった。
慶長十年(1605年)に松浦鎮信は、使いをつかわして、その禅寺が弘法大師(空海 真言宗の開祖)ゆかりの地と伝えられていたので、勝音院に曹洞宗から真言宗に改宗命令を出しました。
しかし住職だった龍呑、英徹の両和尚はそれに従わず、怒った松浦鎮信は遠藤という武士を遣わして、勝音院を焼き討ちさせました。
両和尚は大いに怒り、猛火の中に飛び込み、短刀で切腹し、その仏像にすがりつつ「尽未来際この恨みを晴らさずにおくものか」と叫び焼死したと伝わっています。

その後、勝音院の跡地には真言宗のお寺「高野山 最教寺(現在は九州八十八ヶ所百八霊場第七十七番札所となっています)」が建立され、安置されましたが、不思議なことが次々と起こったり、疫病が流行したりしました。
これは祟りではないかと恐れられ浄漸寺が請い受けたそうです。
それ以降は霊験あらたかな尊像になったそうです。

その尊像は、中国的な影響も見られ、面長の個性的な面貌を見せる異国的な色彩があり、総体的に朝鮮半島高麗時代(10世紀初~14世紀末)の特色を示していて、薬師如来と考えられています。
座像は高さ6cmで、このような大型の高麗金銅仏は、日本に30数体が知られていて、その内20体程が壱岐・対馬を中心に確認されているそうです。
浄漸寺の仏像が日本に渡来した経緯は明確ではありませんが、17世紀の初めに松浦藩の本拠地の平戸に存在した意味は大きく、松浦鎮信にかかる由緒は正しいとされています。
昭和28年に盗難にあって両手を失ってはいますが、高麗仏として像容や鋳成においては遜色なく、特徴ある面貌や造作、類例が少ない背部の切り込みなど、仏像彫刻としての美術的な価値も高く、この種の高麗金銅仏の鋳造技術や、製作の地域性についての研究上からも、非常に貴重な文化財となっています。

九州八十八ヶ所百八霊場第七十二番札所 櫨山 光輪院

次回は九州八十八ヶ所百八霊場第七十二番札所「櫨山 光輪院」をお伝えします。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

コメント