九州八十八ヶ所百八霊場 第二十九番札所 興雲山 海岸寺

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九州八十八ヶ所百八霊場
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静かなお寺で、大師堂には九州で有数の大きなお大師様が迎えてくれます。
醍醐の教えである「実修実証」を守り、厄除や交通安全、水子供養等の各種の祈願を修す山伏の寺です。
寛政元年に臼杵藩の祈願寺となり、藩主やその一族、特に奥様方がお参り下さいました。
境内には日本地図を最初に作った伊能忠敬の碑もあり、庭のつつじはつつじの名所として有名です。
凝った造りの鐘楼門を入ると右に東南アジアを思わせる仏塔の上に厄除け大師が祀られています。
九州八十八か所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~より

『概略』

興雲山 海岸寺
(御朱印)

創建

延宝6年(1678年) 修験者・善性院(寂光院と称して建立)
元禄15年(1702年) 現在地に移転・本堂建立
寛政元年ごろ 海岸寺に改名

宗派

真言宗 醍醐派

ご本尊

阿弥陀如来坐像(九州八十八ヶ所百八霊場ご本尊)
(お御影)

ご真言

おん あみりた ていぜい から うん

阿弥陀如来について

阿弥陀如来は、無限の寿命を持つことから無量寿如来または無量光如来と漢訳されています。『無量寿経』には 「諸仏の中に於いて光明最尊第一にして、この光にあう者をして一切の苦から免れしめる」 と無量の光明の徳と無限の慈悲が説かれています。
限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。
四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。
ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。
仏像では、阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。
さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるともいわれ、その来迎の様子をあらわす場合もあります。

真言密教で表される阿弥陀如来は、衆生の宗教的素質がどのようなものかを妙(たえ)に観察し、 真理の教えを説いて疑惑を断じ、衆生にその本性が清らかで蓮華のようであることを知らしめる 大日如来の妙観察智の徳をつかさどる仏です。つまり大日如来の徳の一つを阿弥陀如来が受け持っているわけです。

住所・連絡先

大分県津久見市堅浦602 TEL 0972-82-2705
(地図)

アクセス

JR日豊本線津久見駅から臼津交通バス楠屋行、堅浦下車、徒歩5分
国道10号線から徳浦・堅浦方面に向かい、小野田セメントを通って右折する。
山門前に駐車場あり。

ご詠歌

松風や 岸打つ波は 海岸寺 花の浄土も 近くなるらん

かつては陸の孤島の地に(第二十九番 海岸寺)

臼杵から一山越えると津久見市に入ります。
海岸寺のある堅浦は今でこそ道も繋がりバイパスも出来、交通の便が良くなりましたが、かつては船でしか行き来が出来ない陸の孤島だったそうです。

すぐ近くには小野田セメントの一大セメント工場群がありますが、堅浦の町まで来るとその工場地帯の喧騒が嘘のような静かで穏やかな空気が流れています。

海岸寺は小高い山を背にして建っています。
臼杵に居た修験者の善性院が西九ノ助の屋敷に寂光院を建立したのがこのお寺の始まりです。
その後現在地にあたる弁指善六の屋敷に移し本堂が建立されました。そして後臼杵藩の祈願寺となり、この頃に「海岸寺」と改名したようです。
その後明治に入るとご多分に漏れず、廃仏毀釈の影響を受け、一時は衰退しましたが、大正以降には復興しました。

この寺の伽藍は面白く、凝った造りの鐘楼門を入ると正面に本堂と見紛うような立派な護摩堂があり、その左手にどっしりとした入母屋造の本堂があるという配置です。
その本堂の中に金色に輝く本尊の阿弥陀如来が祀られています。

また護摩堂の右手、本堂と向き合うように東南アジアの仏教建築のようなお堂があり、屋根の頂には弘法大師が坐して我々を見下ろしていました。

護摩堂の屋根越しの山中に宝形造の小堂が見えますが、こちらが奥の院大師堂です。
わずかな距離なのですが、その道はけっこう険しく、少しだけ修験道の厳しさも感じられます。

南無大師遍照金剛

余談になりますが、護摩堂左手脇のお庭に記念碑が建っていますが、地図で有名な伊能忠敬が測量のためこの地を訪れたことを顕彰して建てられたものだそうです。

次回は第三十番札所「東光山 大日寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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