九州四十九院薬師霊場 第三番札所 白馬(はくば)山 安国寺

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九州四十九院薬師霊場 第三番札所 白馬山 安国寺 九州四十九院薬師霊場
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九州四十九院薬師霊場 第三番札所 白馬山 安国寺

暦応2年(1339年)足利尊氏夢窓国師の勧めにより、南北朝の戦いに殉じた戦歿者の霊を弔うため、全国に建立した安国寺・利生塔(一国一寺一塔)の一つです。当初は、七堂伽藍を構えたが、文安元年(1444年)兵火により焼失。文明2年(1470年)再建。

九州四十九院薬師巡礼より

なお、第二番札所 医王山 南淋寺は九州八十八所百八霊場 第六番と重複しておりますので、こちらをご覧ください。

九州四十九院薬師霊場巡礼について

薬師信仰は、人々の病の苦しみからの解脱を願う、仏教伝来とともに根づいた、切実にして身近な信仰です。
この薬師信仰と九州独自の文化を一体化して、先人の努力によって今日まで護持された寺々が集まり、「九州四十九院薬師霊場会」が開創されました。
薬師信仰という、真筆にして敬虐な古い形の祈りを通して、神と仏が共存した、日本らしい信仰の形態を思い返しつつ、幅広い信仰文化が創造されています。

地図上で見れば一見簡単に廻れそうにも感じますが、一巡すれば、想像をはるかに越えた長行程です。
九州四十九院薬師霊場には、人里近くの寺が、周囲の都市化に伴い、街のさなかに軒を並べるに至った寺や山路を訪ねて奥深く分け入る寺、古い歴史のたたずまいが随所に溢れている寺、旧跡を復興して新しく建てられた寺等々、魅力がいっぱいです。きっと新しい発見があるはずです。

薬師如来について

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじる心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

日光菩薩・月光菩薩

この二尊はそれぞれ単独で信仰されることはありません。
常にペアで薬師如来様をお護りされています。
通常は向かって右側(左脇侍)に日光菩薩左側(右脇侍)に月光菩薩が左右対称に配されています。
日光菩薩は日光遍照とも呼ばれ、千の光を放ち天下を照らし衆生を救済するお役目があります。一方、月光菩薩は月光遍照とも呼ばれ、薬師如来様の正しい教えを守るお役目を担っておられます。
両菩薩ともに衆生の不安や苦しみ、謂わば闇の部分に昼夜分かたずひかりを照らしておられます。
その象徴として、日光菩薩は太陽・日輪月光菩薩は月・月輪を手にした蓮華にのせられています。(宝冠に太陽、月を表す場合もあります)

日光菩薩 ご真言

おん そりや はらばや そわか

月光菩薩 ご真言

おん せんだら はらばや そわか

十二神将

薬師如来様に付き従うガードマン的存在の一団です。
と同時に経典を読む人々を守るという役目も担われています。
十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るといわれています。そのため中国や日本では十二支が充てられています。その割り当てには解釈の違いによって諸説ありますのでご注意ください。当ブログでは混乱を避ける意味から、敢えて割り当てられた十二支は省かせていただいております。
平安時代以降、頭上に標識として干支の動物を掲げている像が一般化され、十二支の彫刻がないものを古様、あるものを新様といいます。
さらに十二神将にはそれぞれ如来・菩薩・明王が化身されたものと言われています。

十二神将とご真言

宮毘羅大将(金毘羅童子、宮比羅)(くびらたいしょう)

おん くびら そわか

伐折羅大将(金剛力士)(ばさらたいしょう)

おん ばさら そわか

迷企羅大将(めきらたいしょう)

おん めきら そわか

安底羅大将(あんてらたいしょう)

おん あんて(ち)ら そわか

頞儞羅大将(あんにらたいしょう)

おん あんにら そわか

珊底羅大将(さんていらたいしょう)

おん さんて(ち)ら そわか

因達羅大将(帝釈天)(いんだらたいしょう)

おん いんだら そわか

波夷羅大将 (はいらたいしょう)

おん はいら そわか

摩虎羅大将(まこらたいしょう)

おん まこら そわか

真達羅大将(緊那羅)(しんだらたいしょう)

おん しんだら そわか

招杜羅大将 (しょうとらたいしょう)

おん しょうとら そわか

毘羯羅大将(びからたいしょう)

おん びから そわか

『概略』

白馬(はくば)山 安国寺
(霊場御朱印)

創建

暦応2年(1339年) 足利尊氏 開基

宗派

天台宗

ご本尊

千手観音坐像(寺ご本尊) 定朝作

白衣観音坐像(寺宝)
薬師如来坐像(九州四十九院薬師霊場ご本尊)

ご詠歌

あきいたる やまだのなると おとづれて うきよのゆめを さますあかつき

住所・連絡先

福岡県嘉麻市下山田288 TEL 0948-53-0112
(地図)

アクセス

JR筑豊本線「飯塚」駅下車、西鉄バス(上山田行き)「下山田小学校」下車 徒歩15分
自家用車の場合、九州自動車道・福岡インターより八木山バイパス経由、国道211号線にて福岡インターより約50分
太宰府方面へ向かい、国分寺前交差点を左折。インターより5分
門前に駐車場あり

九死に一生をもたらした白衣観音(第三番札所 白馬山 安国寺)

安国寺は暦応2年(1339年)足利尊氏夢窓国師の勧めにより、南北朝の戦いに殉じた戦歿者の霊を弔うため、全国に建立した安国寺・利生塔(一国一寺一塔)の一つで、創建当時は景福院(寺)と号していたそうです。
創建当初は七堂伽藍を有する壮大な寺院でした。火災により焼失しましたが、文明2年(1470年)に再建されました。
その後、天正2年(1574年)、当時の領主、秋月種実が仏殿を建立しました。
さらに豊臣秀吉も深く帰依信仰したと伝えられていて、元和8年(1622年)に観音堂が再建されて伽藍が整いました。
しかしながら、大正12年(1923年)に、またもや本堂を火災により焼失し、現在は観音堂が本堂のみが残っています。

九州四十九院薬師霊場 第三番札所 白馬山 安国寺

され裏山一帯は約1000本の梅があり福岡県内でも有数の梅の名所で「梅林公園」となっているため、その時期には多くの観光客も訪れるようで、駐車場は大型バスが何台も駐車できるようなとても広いスペースがとってあります。

その駐車場から続く石段を登ると安国寺の境内に入ります。
正面にはこんじまりとした本堂(かつての観音堂)が静かに迎えてくれます。
堂内にはご本尊の千手観音や寺宝の源氏の守護仏といわれる白衣観音などが奉安されています。

九州四十九院薬師霊場 第三番札所 白馬山 安国寺

その白衣観音は源頼朝の死後、家臣・合代四郎が西国を遍歴中、夢に観音様が顕れ
「わが安座するところは白馬の啼(な)くところなり」と告げられました。
そこで四郎は方々を訪ね歩き、遂に白馬山に辿り着き奉持していた白衣観音を岩屋に安置して主君の菩提を弔い、修業したそうです。

時を経て、足利尊氏が幕府を開く前に筑前多々良浜にて菊地武敏との合戦に一時期敗戦し、逃れていた時に立ち寄ったと言われ、岩の下に安置された白衣観音に祈願し、その加護で追手から逃れることができ、九死に一生を得たという伝承が残っています。

南無根本伝教大師福聚金剛

境内には、第11代横綱不知火光五郎」の墓碑と石碑があります。
弘化4年(1847年)、筑前国嘉麻郡下山田に住んでいた佐藤利平氏の次男として生まれた。
子どもの頃から力持ちで有名で、初代横綱であった梅ヶ谷関に見込まれ相撲界に入門しました。
みるみるうちに頭角を表した光五郎は、横綱となり、明治14年(1881年)に横綱不知火光五郎となりました。

翌年、東京の回向院で行われた関東関西合併の大相撲夏場所で見事全勝優勝を果たし、日本一の大横綱になりましたが、その優勝を祝う席で、光五郎関の強さに脅威を感じた何者かによって毒をもられ、その強さの絶頂期であった35歳で生涯の幕を閉じたと言われています。
現在でも横綱の土俵入りではその型は「雲竜型」と「不知火型」ですが、その「不知火」の名を襲名した天下無双の横綱の光五郎の逸話のせいか「不知火型の横綱は短命となる」というジンクスから、近年では雲竜型の土俵入りが主流となっているようです。

次回は九州四十九院薬師霊場第四番札所「東照山 種因寺」をお伝えしてまいります。

九州四十九院薬師霊場 第四番札所 東照山 種因寺

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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