九州四十九院薬師霊場 第一番札所 龍頭光(りゅうとうこう)山 筑前 国分寺

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九州四十九院薬師霊場 第一番札所 龍頭光山 筑前 国分寺 九州四十九院薬師霊場
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奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と、文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、当寺も、筑前の国の国分寺として創立されました。
当初は、絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる、大きな柱の礎石にも、容易にうかがい知ることができます。

九州四十九院薬師巡礼より

九州四十九院薬師霊場巡礼について

薬師信仰は、人々の病の苦しみからの解脱を願う、仏教伝来とともに根づいた、切実にして身近な信仰です。
この薬師信仰と九州独自の文化を一体化して、先人の努力によって今日まで護持された寺々が集まり、「九州四十九院薬師霊場会」が開創されました。
薬師信仰という、真筆にして敬虐な古い形の祈りを通して、神と仏が共存した、日本らしい信仰の形態を思い返しつつ、幅広い信仰文化が創造されています。

地図上で見れば一見簡単に廻れそうにも感じますが、一巡すれば、想像をはるかに越えた長行程です。
九州四十九院薬師霊場には、人里近くの寺が、周囲の都市化に伴い、街のさなかに軒を並べるに至った寺や山路を訪ねて奥深く分け入る寺、古い歴史のたたずまいが随所に溢れている寺、旧跡を復興して新しく建てられた寺等々、魅力がいっぱいです。きっと新しい発見があるはずです。

薬師如来について

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじる心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

日光菩薩・月光菩薩

この二尊はそれぞれ単独で信仰されることはありません。
常にペアで薬師如来様をお護りされています。
通常は向かって右側(左脇侍)に日光菩薩左側(右脇侍)に月光菩薩が左右対称に配されています。
日光菩薩は日光遍照とも呼ばれ、千の光を放ち天下を照らし衆生を救済するお役目があります。一方、月光菩薩は月光遍照とも呼ばれ、薬師如来様の正しい教えを守るお役目を担っておられます。
両菩薩ともに衆生の不安や苦しみ、謂わば闇の部分に昼夜分かたずひかりを照らしておられます。
その象徴として、日光菩薩は太陽・日輪月光菩薩は月・月輪を手にした蓮華にのせられています。(宝冠に太陽、月を表す場合もあります)

日光菩薩 ご真言

おん そりや はらばや そわか

月光菩薩 ご真言

おん せんだら はらばや そわか

十二神将

薬師如来様に付き従うガードマン的存在の一団です。
と同時に経典を読む人々を守るという役目も担われています。
十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るといわれています。そのため中国や日本では十二支が充てられています。その割り当てには解釈の違いによって諸説ありますのでご注意ください。当ブログでは混乱を避ける意味から、敢えて割り当てられた十二支は省かせていただいております。
平安時代以降、頭上に標識として干支の動物を掲げている像が一般化され、十二支の彫刻がないものを古様、あるものを新様といいます。
さらに十二神将にはそれぞれ如来・菩薩・明王が化身されたものと言われています。

十二神将とご真言

宮毘羅大将(金毘羅童子、宮比羅)(くびらたいしょう)
   おん くびら そわか

伐折羅大将(金剛力士)(ばさらたいしょう)
   おん ばさら そわか

迷企羅大将(めきらたいしょう)
   おん めきら そわか

安底羅大将(あんてらたいしょう)
   おん あんて(ち)ら そわか

頞儞羅大将(あんにらたいしょう)
   おん あんにら そわか

珊底羅大将(さんていらたいしょう)
   おん さんて(ち)ら そわか

因達羅大将(帝釈天)(いんだらたいしょう)
   おん いんだら そわか

波夷羅大将 (はいらたいしょう)
   おん はいら そわか

摩虎羅大将(まこらたいしょう)
   おん まこら そわか

真達羅大将(緊那羅)(しんだらたいしょう)
   おん しんだら そわか

招杜羅大将 (しょうとらたいしょう)
   おん しょうとら そわか

毘羯羅大将(びからたいしょう)
   おん びから そわか

『概略』

龍頭光(りゅうとうこう)山 国分寺
(霊場御朱印)

別称

筑前国分寺

創建

天平13年(741年)聖武天皇勅願

宗派

高野山真言宗

ご本尊

薬師如来坐像(寺ご本尊・九州四十九院薬師霊場ご本尊・国指定重要文化財) 行基作

ご詠歌

ありがたや 國分(こくぶ)の里の 薬師様 瑠璃の御光(みひかり) 永久に輝く

住所・連絡先

福岡県太宰府市国分4-13-1 TEL 092-924-3838
(地図)

アクセス

アクセス西鉄大牟田線「都府楼前」駅下車、徒歩15分
または、二日市駅よりタクシー利用にて10分
自家用車の場合、九州自動車道・太宰府インターより太宰府方面へ向かい、国分寺前交差点を左折。インターより5分
門前にに駐車場あり

聖武天皇の勅願による国分寺のひとつ(第一番札所 龍頭光山 国分寺)

奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と、文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました
筑前国分寺の正確な創建年代は分かりませんが、全国六十余国に造られた国分寺のひとつで、史料から九州内の他の国分寺よりも先行して建立されたと考えられています。

当初は、絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる、大きな柱の礎石(金堂礎石)にも、容易にうかがい知ることができます。
創建当時は、約192m四方の寺域に金堂・七重塔・講堂などの建物が整然と配置されていたといいます。
現在の国分寺は、当時の国分寺の金堂跡にその堂宇を構えています

ちなみにかつての七重塔は、筑前国分寺から約200mのところにある太宰府市文化ふれあい館に、精巧に復元された七重塔の1/10模型があります。

山門前には「八角灯篭」があります。
奈良東大寺大仏殿の前にある銅製八角灯籠をモデルに製作され、火袋(ひぶくろ)には、 音声菩薩(おんじょうぼさつ)がさまざまな楽器を手に演奏している姿が刻まれています。

国分寺は、正しくは「金光明四天王護国之寺」と称して、20名の僧侶を置き、水田10町と僧寺に封戸(律令制で、食封じきふの制により、位階・官職・勲功によって朝廷から授けられた課戸=夫役 (ぶやく) を課される者が1人以上いる家)50戸を寄進するという膨大なものでした。
余談ながら、同じく聖武天皇の勅願により建立されていった国分尼寺は正式には「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と称していました。

山門をくぐると正面に本堂があります。

今でこそ各堂宇は改築され、美しい姿を見せていますが、筑前国分寺も、歴史の流れに従い数々の兵火により、本堂はおろか堂・坊舎まで焼かれ、ほとんど廃絶に近いまで荒廃していた時代もあったそうです。
たまたま武蔵の国から来ていた、廻国の修行僧が、形ばかりの草堂を再建し、その後、数十年を経て江戸時代の元文年間(1736年)に中興の師である俊了が、国中に浄財を募って小堂を建立しました。
そして天明年間(1781年)になり、僧・忍龍が山門を修理する傍ら、福岡黒田藩の長老・黒田美作より田地の寄付を受けるまでになりました。
さらに時代はくだり、明治24年(1891年)中興一世・原 崇寿が本堂を再建し、坊舎を修繕しようやく一寺としての体裁を備えるようになったそうです。

境内を取り囲む土塀には五線の文様が刻まれていますが、これは最高位の寺格を表しています。

さて宝形造の本堂に、十二神将を従えたご本尊、薬師如来座像が安置されています。
国指定の重要文化財となっていますが、秘仏ではなく、常に公開されています。
その阿弥陀如来坐像は、行基菩薩の作で、宝冠を被り、左手に薬のはいっている器をお持ちになり、右手の指で印を結んでおられる珍しい尊像です。

作の行基菩薩は、当ブログでも寺の創建や、仏像の制作などでよく登場しますが、西暦668年天智天皇七年に泉の国(現 大阪府堺市)に生まれ、 15歳で出家得度し、 勉学に勉める傍ら彫刻をもよくしました。
そして国内に多くの寺院を建立し、また、交通潅概施設を造るなど、 社会事業を通じて民間布教に尽くされた人です。
初めは、 「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、政府の激しい弾圧を受けましたが、 天平初年頃から次第に重要視され、 やがて聖武天皇の方から接近して、薬師寺に入り、 聖武天皇の大仏造営事業に協力、 天平17年(745年)我が国最初の大僧正となり、天平21年(749年)大菩薩の号を賜り行基菩薩と崇敬された名僧です。

さて、本堂隣には、観音堂があり、福徳・智慧・資材一切の大願が意の如く成就すると言われる「如意輪観音」が安置されています。

南無大師遍照金剛

境内には「薬師之水」と書かれた大木があり、その大木に龍頭の蛇口があり、そこから薬師の水が出るようになっています。
また蛇口の上の方には洞が穿ってあり、小さな薬師如来が奉安されていました。

次回は九州四十九院薬師霊場第三番札所「白馬山 安国寺」をお伝えしてまいります。
第二番札所「医王山 南淋寺」は九州八十八所百八霊場 第六番札所と重複しておりますので、こちらをご覧ください。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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