九州四十九院薬師霊場 第六番札所 広寿山 福聚寺

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九州四十九院薬師霊場
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九州四十九院薬師霊場 第六番札所 広寿山 福聚寺

第六番札所の広寿山福聚寺は北九州市小倉北区足立の自然豊かな場所にある黄檗宗おうばくしゅう)という宗派の古刹です。秋には紅葉を見に観光客で溢れます。御本尊は「釈迦牟尼仏坐像」で、薬師霊場のご本尊が「薬師瑠璃光如来坐像」です。

九州四十九院薬師巡礼より

霊場本尊・薬師如来について

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじる心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

『概略』

広寿山 福聚寺
(霊場御朱印)

別称

広寿山(こうじゅざん)
足立の薬師さん

創建

寛文5年(1665年) 
開基 小倉小笠原・初代藩主 小笠原忠真
開山 即非如一(そくひにょいち)禅師

宗派

黄檗宗(禅宗)

ご本尊

釈迦牟尼仏坐像坐像(寺ご本尊)

ご真言

のうまく さまんだ ぼだ なんばく

御詠歌

豊の国 足立薬師よ 愚かなる 吾が身と心 護らせたまえ

住所・連絡先

福岡県北九州市小倉北区寿山町6-7 TEL 093-541-2270
(地図)

アクセス

JR鹿児島本線「遠賀川」駅よりタクシーにて10分
JR筑豊線「鞍手」駅または「筑前垣生」駅よりタクシーにて5分
自家用車の場合、九州自動車道「若宮」インターチェンジより鞍手、中間方面へ15分
門前に駐車場あり

禅宗らしい荘厳さと共に凛とした黄檗宗の寺院(第六番札所 福聚寺 )

細川家、小笠原家と明治維新まで続いた小倉藩十五万石の城下町小倉の足立山の北麓に禅宗らしい荘厳さと共に凛とした空気の中、福聚寺は伽藍を構えています。
福聚寺は細川家が熊本に移った後、小倉を治めた小笠原氏の菩提所です。


寺伝によれば、開山は隠元禅師の高弟・即非如一だそうです。その即非如一禅師は中国の人で明暦3年(1657年)に日本にやってきて宇治黄檗山に入り隠元禅師の法化を助けました。
ちなみに黄檗宗は中国臨済禅の一派です。始祖の隠元禅師は長崎の崇福寺の僧で逸然の懇請により来朝し中国の風習を踏襲した法式が特徴だそうです。

黄檗宗とは

黄檗宗は臨済宗や曹洞宗と並ぶ日本三禅宗の1つです。
宗派名は中国の黄檗山万福寺の山名に由来しています。
この黄檗宗は江戸時代になってから伝来した比較的新しい宗派ということもあり、国風化が進んだ曹洞宗や臨済宗とは様々な点において違いがあります。
黄檗宗の総本山は京都府宇治市にある「黄檗山萬福寺」です。
禅宗五家の1つである中国の臨済宗が起源となっており、宗祖は中国の僧の隠元禅師です。
1654年に来日した隠元禅師は、1661年に後水尾法皇と将軍徳川家綱の庇護のもとで、宇治に9万坪の土地が与えられ、「黄檗山萬福寺」を建立しました。
また隠元禅師は、普茶料理インゲン豆、レンコン、孟宗竹などを日本にもたらし黄檗宗を広めるだけではなく、文化、芸術、建築、医療など幅広い分野で功績を挙げた人物としても知られています。

黄檗宗の教えは「唯心の浄土・己身の弥陀」という言葉に要約されます。
これは、この世に存在するものは、心の中にある物であり、仏様もその例外ではありません。
したがって阿弥陀仏や極楽西方浄土を求めるならば、まずは自分自身の心の中に仏性を見出すことが大切といった意味だそうです。

九州四十九院薬師霊場 第六番札所 広寿山 福聚寺

天明9年(1789年)正月、禅堂より出火、仏殿を始め全焼したため、寛政6年(1794年)から享和2年(1802年)まで13年をかけて再建されました。
慶応2年(1866年)、長州征討の時、幕府軍肥後藩の本陣となっていましたが、小倉藩が城を焼いて香春へ退くとき、寺も焼くようにと指示があり、住職などは火をつけて田川郡金田村へ避難しました。
しかし、幸いにも仏殿、不二門、収蔵庫、鐘つき堂などは焼けずに残りました
ですので、現在の建物は享和2年(1802年)に再建された仏殿(本堂)・不二門・鐘楼や明治以降の再建の開山堂・祠堂・方丈・庫裡などです。

黄檗宗の寺院は明朝様式と呼ばれる中国式です。
伽藍の建築様式だけではなく、装飾などの色合いも極めて中国的で、日本の寺院とは異なる趣となっています。

総門(黒門)は、境内に入る最初の門で黒い色をしていることから黒門とも呼ばれています。正面の扁額「第一関」は、初代住職即非和尚が書かれたものです。
不二門は、総門に次ぐ第二の門で享和2年に再建されたものです。表の寺額(廣壽名山福聚禅寺」と、内側の扁額「不二門」は即非和尚の書になるものです。
仏殿の扁額「吉祥寶殿」は即非和尚の書によるものです。

また、仏具などにも大きな違いがあります。
黄檗宗の法要では銅鑼や太鼓といった鳴り物が用いられており、これらの仏具は中国から運ばれたものを使用しています。
とりわけ仏殿脇のオレンジ色の大きな開梆(かいばん)は黄檗宗ならではといった感じで見ものです。
開梆とは、木魚の原型と言われ、法要や食事の時間になると打ち鳴らしてその時を知らせます。
魚梆(ぎょほう)とも言われています。

次回は九州四十九院薬師霊場第七番札所「内尾山 相円寺」をお伝えしてまいります。

九州四十九院薬師霊場 第七番札所 内尾山 相円寺

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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