タイトル:九州四十九院薬師霊場 第十一番札所 桧原山 正平寺

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九州四十九院薬師霊場 第十一番札所 桧原山 正平寺 九州四十九院薬師霊場
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九州四十九院薬師霊場 第十一番札所 桧原山 正平寺

寺記によれば、崇竣天皇御即位元年(587年)百済の国僧・正覚上人が来朝し、初め犬(院)ヶ岳に大窟山長福寺を開基し、その後に桧原山に移し一寺を建立したのが正平寺の開創だそうです。
我が国に仏教が伝わったのが530年前後と考えると、正平寺をもって日本仏教のスタートの寺と言ってもいいかもしれません。

九州四十九院薬師巡礼より

霊場本尊・薬師如来について

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじける心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

『概略』

桧原(ひばる)山 正平(しょうへい)寺
(霊場御朱印)

創建

崇竣天皇御即位元年(587年)正覚上人

宗派

天台宗

ご本尊

霊場御本尊 薬師如来坐像 薬師堂

ご真言

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

寺院御本尊

寺院御本尊 阿弥陀如来・釈迦如来・十一面観世音菩薩

ご真言

阿弥陀如来・おん あみりた ていぜい から うん

釈迦如来・のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

十一面観世音菩薩・おん ろけいじんばら らじゃ きりく

住所・連絡先

大分県中津市耶馬渓町中畑1419 TEL 0979-54-3260
(地図)

アクセス

中津駅前より柿坂、守実温泉、日田方面行きバス(大分交通)30分、津民入口下車。奥畑、川原口行バスに乗り換え5分、桧原山入口下車、徒歩90分。
中津方面からお越しの方
国道212号を日田方面へ → 津民入口(中津駅より20km)を右折し、県道2号へ → 県道2号を2km桧原山入口バス停を右折し市道(集落道)へ → 市道を1km程で右折 → 100m程登ったところで右折 → 約4.5kmの登坂路を上り到着

日本仏教のスタートの寺 第十一番札所 桧原山 正平寺

寺記によれば、崇竣天皇御即位元年(587年)百済の国僧・正覚上人が来朝し、初め犬(院)ヶ岳に大窟山長福寺を開基し、その後に桧原山に移し一寺を建立したのが正平寺の開創だそうです。
我が国に仏教が伝わったのが530年前後と考えると、正平寺をもって日本仏教のスタートの寺と言ってもいいかもしれません。

九州四十九院薬師霊場 第十一番札所 桧原山 正平寺

天平勝宝4年(752年)孝謙天皇の勅願所と定められ、以来、山号を「桧原山」、寺号を「正平寺」と称するようになりました。
安和2年(969年)大講堂が建立され、以来、国府の所管するところとなり、鎮護国家の祈願道場として、そして豊前山岳仏教の修験霊場として英彦山・求菩提山と共に隆盛をきわめました。

大字の中畑、福土の二村が寺領でしていましたが、黒田氏が中津城主の時(1587年)米百石を附して没収されてしまいました。
しかし、細川、小笠原氏の時代となり寺領も復活し、山上における全ての堂宇の営繕も負担されたそうです。
さらに奥平氏の代には、天明7年(1787年)奥平富之進昌高氏が上宮本堂を建立され、篤く庇護されていました。

最盛期には二十四坊の坊中を有すしていましたが、
明治政府のによる神仏分離令に加えて、明治維新の変革により寺領であった山林は全部国有林に編入され、また追い打ちをかけるように明治11年3月庫裡が消失し、明治21年には山火事により講堂をはじめ鐘楼、神輿などことごとく灰燼に帰してしまいました。
上宮本堂(奥の院)も焼失したため、石龕三宇を建立して本尊を安置していました。
明治23年、天台宗の宗達により大分県下一円福岡県京都郡と併せて天台宗務支所となりました。

明治29年、又不幸にして大講堂・鐘楼・みこし三体・当寺縁起、その他宝物一切を焼失し、現在の講堂は明治35年に復興したものです。
さらに平成10年には御輿三体が、平成13年には県下最大の梵鐘が復興されました。

県指定無形民俗文化財である「お田植祭」は神仏習合の名残をいまに伝える貴重な行事です。

桧原マツ(御田植祭)

大分県ホームページより

毎年4月の第2日曜日に行なわれる恒例のお祭りです。行事に先立って、中津の浜の潮水を汲んで、山頂の権現様に供えることから始まります。
始まりは鎌倉時代。およそ700年の伝統を誇ります。
藩制時代寺領であったと言われる山麓の中畑、上ノ川内、福土の3集落の信者によって継承されてきました。
その檜原山正平寺の桧原マツ御田植祭)では五穀豊穣の祈願を目的として行なわれており、その儀式には神仏習合の名残があるとされいています。
ちなみに、御田植式は英彦山六峰の修験の山々である英彦山(添田町)、求菩提山(豊前市)、松尾山(大平村))でも行われています。
その中でも正平寺の素朴な行事は、御田植式の最も古い形をそのまま受け継いでいるものと研究家は高く評価しているそうです。
そんな桧原マツ(御田植祭)では講堂での法要が行なわれた後、御神幸先に神輿三体を安置してホラ貝を合図に山伏・僧兵姿の氏子たちが山門まで練り歩く儀式が行なわれるほか、御田植え式の奉祀などが行われます。
行事が終わると、山の神は里に下りて農耕を司り、春深まるにしたがって、近郷の農耕作業が始まります。

「桧原マツ」の「マツ」とは、まつりのつづまったものであると言われていますが、明治の中頃まで「マツ柱御幣切行事」という重要な儀式が行われており、これにより「マツ」という説もあります。

南無根本伝教大師福聚金剛

桧原山は卓状台地の上に円錐形の山をのせた山容で、耶馬渓中随一の秀峰といわれ、その中腹に正平寺があります。
その昔「役の行者小角」が修行した奇窟景勝(押分岩、針の耳、左京の橋、行者岩、こうもり岩等)を回りながら登山できるそうです。
山頂には桧原権現が祀られ、中津、豊前市方面の展望が開け、南側は八面山、由布鶴見、九重連峰万年山等の眺めが良いところです。
山の北側には天然記念物で一株から三十本位にわかれたかつらの大樹の「千本かつら」(正平寺庫裡から700m)があり、
そのかつらの木は、役の行者小角が大和の葛城山から持ってきて植えたと伝わっています。

九州西国霊場 第十三番札所 阿蘇山 西巌殿寺

次回は九州西国霊場 第十三番 西巌殿寺をお伝えしてまいります。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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