延応元年(1239年)阿聖上人が全国を巡錫中、貫山に紫雲棚引くのを見て貫山が霊山であると感じ庵を結んだのが「貫山真光寺」の始まりです。現在は、幾多の戦火により焼失し残った小堂を仮本堂として本尊阿弥陀如来を始め焼け残った仏像をお祭りしています。
『概略』
貫山修善院 真光寺
創建
延応元年(1239年)阿聖(あしょう)上人
宗派
高野山真言宗
ご本尊
阿弥陀如来坐像
ご真言
おん あみりた ていぜい から うん
阿弥陀如来について
阿弥陀如来は、無限の寿命を持つことから無量寿如来または無量光如来と漢訳されています。『無量寿経』には 「諸仏の中に於いて光明最尊第一にして、この光にあう者をして一切の苦から免れしめる」 と無量の光明の徳と無限の慈悲が説かれています。
限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。
四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。
ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。
仏像では、阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。
さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるともいわれ、その来迎の様子をあらわす場合もあります。
真言密教で表される阿弥陀如来は、衆生の宗教的素質がどのようなものかを妙(たえ)に観察し、 真理の教えを説いて疑惑を断じ、衆生にその本性が清らかで蓮華のようであることを知らしめる 大日如来の妙観察智の徳をつかさどる仏です。つまり大日如来の徳の一つを阿弥陀如来が受け持っているわけです。
住所・連絡先
福岡県北九州市小倉南区貫2333 TEL 093-230-2148
(地図)
アクセス
JR日豊本線下曾根駅より西鉄バスで西専寺前下車、徒歩3分
ご詠歌
ありがたし 弥陀のお慈悲に導かれ この世 のちの世 元氣幸福
再興途上の古刹(第九十一番 真光寺)
真光寺の歴史は延応元年(1239年)阿聖上人が諸国巡錫中に貫山に紫雲(仏が乗って来迎するとされる雲)がたなびくのを見て霊山と感じ庵を結んだのが始まりとされています。
のちに中国地方の大内氏の豊前侵攻の際本陣となり伽藍は全焼しましたが、勝利した大内氏は寺を再興し、祈願寺とし「下寺三十五坊」と言われるほど栄えました。
その大伽藍も江戸時代末期の小倉戦争により再びことごとく焼失してしまいました。
そのような歴史をたどった真光寺は国道10号線から貫山(ぬきさん)方面に南下する途中、東九州自動車道の高架の近くの田園風景の広がるところにひっそりと佇んでいます。
わずかに残された小堂を仮本堂として若い住職の方が日々精進しながら焼け残った阿弥陀如来や他の仏像をお祀りし復興に努められておられるそうです。
参拝中もずっと寄り添っていただき、参拝者を大切にしながら再興を図っておられるお姿に、ご住職のお人柄を感じさせていただいたお参りでした。
南無大師遍照金剛
現在、真光寺の風光に心血を注いでいらっしゃるご住職は元バーテンダーという異色の経歴の持ち主です。 住職の義父は戸畑区の寺の住職で、住職が入寺するまで寺の再興を願って兼務していたそうです。
次回は九州八十八ヶ所百八霊場第九十二番札所「大原山 不動院」をお伝えしてまいります。
願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを 合掌
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