九州八十八ヶ所百八霊場百六番札所 二上山 眞光院

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九州八十八ヶ所百八霊場第百六番札所 二上山 眞光院 九州八十八ヶ所百八霊場
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九州八十八ヶ所百八霊場第百六番札所 二上山 眞光院

眞光院は大正年間、福岡県篠栗に開創後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元年、糸島に移転しました。移築に際し「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎えし、鎮守として清瀧大権現をお祀りしています。また伝説のお綱大明神も奉安しています。

『概略』

二上(にじょう)山 眞(しん)光院

創建

大正年間(1912年~1926年)

宗派

真言宗大覚寺派

ご本尊

大随求(だいずいく)菩薩坐像

ご真言

おん ばらばら さんばら さんばら いんだりや びしゅだに うんうんろろ しゃれい そわか

大随求菩薩について

大随求菩薩(だいずいくぼさつ)は、仏教、特に密教における菩薩の一尊です。
胎蔵界曼荼羅の蓮華部にあり、観音菩薩の変化身とされています。
随求明王菩薩とも呼ばれ大自在菩薩と同義の菩薩様です。
大随求菩薩を念じて、ご真言を唱えれば、衆生の求願に随い、施し与えることにより「随求」と名づけられています。
その真言を随求陀羅尼(だらに)といいます。
真言には息災・滅罪、特に求子の功能が歓ばれて平安時代以降に盛んに信仰を集めましたが、単純に真言を唱えるのみで、あまり尊格としては重んじられなかったため、ご本尊とされることは少ないようです。
尊像のお姿は、身は黄色で宝冠があり、その中に化仏があります。
慈悲・円満相で八臂を持ち、持ち物には多少の違いはあるものの、右手に五鈷杵・剣・鉞斧・三股戟、左手には法輪を載せた蓮華・索・宝幢・梵篋と、両側に林立し蓮華に座しておられます。

住所・連絡先

福岡県糸島市二丈福井395-1 TEL 092-325-16875721
(地図)

アクセス

JR筑肥線の筑前深江駅下車、旧二丈町市街地、国道202号を唐津方面へ向う途中に登り口有り。徒歩20分。
202号バイパスご利用の場合、牧のうどん(二丈バイパス店)駐車場の手前側道を東へ。車で1分。
境内に駐車場あり

ご詠歌

まことある みちをおしえて もろびとの まよいをすくう のりのすめらぎ

お綱大明神(第百六番 眞光院)

眞光院の背に聳える山は、かつては山頂部は女人禁制で「霊峰二丈」と呼ばれ、近年では経筒も発見されている山岳信仰の霊山です。

二丈浜玉ロードに沿ったところにある山門ををくぐり、回り込むように境内を進むと、一番奥に庫裡と並んで本堂(随求堂)があります。
ここにお祀りされているご本尊は「大随求菩薩」で、この仏様をご本尊とされている寺院は珍しいそうです。
その脇仏には左に摩利支天、右には三宝荒神が奉安されています。

九州八十八ヶ所百八霊場第百六番札所 二上山 眞光院

本堂の左手に護摩堂(五大堂)があり、大日大聖不動明王をはじめ、降三世明王軍茶利明王大威徳明王烏枢沙摩明王と弘法大師が祀られています。

その護摩堂の裏手には清瀧水というご神水が湧いていて、その霊示を授けた清瀧権現をお祀りした清瀧堂が境内にありました。

そしてさらに福岡で最も凄惨な怪談として語り継がれている話にお綱の話がありますが、そのお綱の霊を鎮めるための「お綱大明神」も縁あってこの眞光院の境内に置かれています。

現在ではこの地で、お社内のお綱親子地蔵となって夫婦円満、家内和合を祈っているそうです。

境内はこじんまりとはしているものの充実したお参りを終えてご住職との会話もその滲み出る優しいお人柄からか、二丈岳を背に本堂正面に広がる玄界灘の海原も晩秋の陽を浴びて穏やかに輝いていました。

南無大師遍照金剛

伝説「お綱門」

黒田二代目藩主忠之は、参勤交代の帰路、大阪で一人の芸妓を見初め釆女(日本における采女(うねめ)は、朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行った女官のこと。平安時代初頭までの官職)という肩書きで博多へ連れて帰りました。しかし、家老に釆女を側室にする事に反対され、お綱さんの夫である家臣の浅野四郎左衛門にあずけることになりました。

四郎左衛門は釆女の美しさに溺れてしまい、お綱と子どもたちを下屋敷に追いやり、その生活を楽しみました。
お綱も最初は殿様の命令だからと我慢しておりましたが、日がたつにつれ夫の心が自分から離れていることに気づき、暮らしの為の金銭も届かなくなったのでした。

明日は雛祭り。幼い娘の祝いの準備もできません。
お綱は「せめて子供に桃の節句の祝いを」と四郎左衛門の住む本宅に使いとして善作を送り、お金の無心を申し出ましたが、
「すでに絶縁」とけんもほろろでした。

奥方を哀れに思い、そして主にも失望した使用人の善作は遺書をしたため、首をくくり死んでしまいました。

ことの次第を知ったお綱は「最早これまで!」と逆上し二人の子どもを手にかけました。
そして子どもたちの首を布に包み、腰にさげ、薙刀を手に、夫と刺し違えんと上屋敷に向かいました。

そして夫がいる上屋敷に着くと、四郎左衛門は登城していて不在でした。
留守をあずかっていた、明石彦五郎は、その形相の凄まじさにただ事ではないことを感じ、お綱に切りつけました。
お綱は重傷を負いましたが、「恨みの一太刀を」と彦五郎から逃れると、薙刀を杖に城の裏門へと向かい、場内に入りました。

命からがら扇坂下の門まで辿り着いたところで力尽き、扉に手を当てたまま息絶えたのでした。

寛永7年(1630年)3月3日のことでした。
以来、お綱が手をあてて息絶えた門を「お綱門」と呼ぶようになったそうです。

その後関係者に異変、凶事が続いたため、お綱の霊を鎮めんと「お綱大明神」としてお祀りされました。

九州八十八ヶ所百八霊場第八十八番番札所 第百八番札所 屏風山 鎮国寺 奥の院

いよいよ、永く、長い九州八十八ヶ所百八霊場の遍路旅も結願を迎えます。
次回は、九州八十八ヶ所百八霊場第八十八番番札所並びに第百八番札所「屏風山 鎮国寺並びに奥の院」をお伝えしてまいります。

なお、九州八十八ヶ所百八霊場第百七番札所「風浪山 隆善寺」は、九州二十四地蔵尊霊場で先行公開してありますので、ご一読ください。

願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを 合掌

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