文明13年(1481年)京の僧が「愛宕将軍地蔵尊・不動明王」の両尊を奉して寺を建立し、両尊を安置して「妙光寺」と号したのが賢龍寺の始まりと伝わっています。その後、幾多の衰微を経ながらもその都度再興され今日に至っています。
『概略』
解脱山 賢龍寺
創建
文明13年(1481年) 妙光寺
明暦元年(1655年) 賢龍院法船寺 中興開山 円峯法印
天明元年(1781年) 現在地にて中興開山 宥玄法印
宗派
真言宗醍醐派
ご本尊
愛宕将軍地蔵騎像(九州八十八ヶ所百八霊場ご本尊)
ご真言
おん かかかび さんまえい そわか
のうまく さんまんだ ぼだなん かかか そたんど そわか
将軍(勝軍)地蔵について
兜と鎧を身に着けて、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持ち、戦馬に騎乗するお姿です。勝軍地蔵を念ずれば戦に勝利するとされ、武家の信仰を集めました。また過去世に犯した罪の報いをまぬがれたり、飢饉を防ぐともされています。
愛宕権現の本地仏です。
大宝年間、役小角が白山修験の開祖とされる泰澄と山城国愛宕山に登ったとき、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに現れ、天下万民の救済を誓った地蔵菩薩が、勝軍地蔵であったという伝承が残っています。
また、敏達天皇の御代、日羅が勝軍地蔵を護持したとされ、さらに『元亨釈書』には清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったことが記されています。
しかしながら、儀軌などが現存せず、延鎮が行ったとされる修法を初め、固有の尊容も明確ではありません。
『地蔵菩薩本願経』『十輪経』『陀羅尼集経』にある「煩悩の賊、天魔の軍に勝つ」「軍陣闘戦に際して、難を免れる」などの記述が、将軍(勝軍)地蔵を感得する依拠とされたと考えられています。
ご利益 延命・開運・勝利
住所・連絡先
大分県豊後大野市千歳町前田1440 TEL 0974-37-2278
(地図)
アクセス
豊後三重町駅(豊肥本線)よりバス・タクシー20分
高速道千歳インター10分 連城寺よりタクシー30分
ご詠歌
御仏の 心は清き 賢龍寺 花につつまれ 南無地蔵尊
大分県最後の札所(第九十六番 賢龍寺)
山村の趣のある集落の中に賢龍寺はあります。
賢龍寺は、約500年前、京の僧が「愛宕将軍地蔵尊・不動明王」の両尊を奉して「妙光寺」を建立しました。
その後、兵火のため伽藍は焼失しましたが、幸いにも ご本尊二尊は搬出され、難を免れたそうです。
以後は少庵を建て安置されましたが、明暦元年(1655年)7月、円峯法印が寺の復興を計り、賢龍院法船寺と寺名を改称し中興開山されました。
そしてさらに200年前、天明元年(1781年)に宥玄法印が荒廃ぶりを深く嘆き、 現在の地に移つして、中興開山となり現在に至っているそうです。
正面の参道両脇に文殊菩薩・普賢菩薩が配され、優しく巡拝者を迎えてくれます。
その間をくぐり、右手のお大師様(修行大師)をお参りし、
そしてその反対側からのびる夢遍路(賢龍寺四国八十八ヶ所)をゆっくりとお参りしながら、最後に観音様に手を合わせ、護摩堂(大師堂)へと進みます。
護摩堂(大師堂)右手に十三仏そして水子地蔵・水掛不動尊、さらには本堂横手に「五大明王」があり、それぞれにしっかりとお参りしました。
最後に入母屋造の本堂にお参りをしてきました。
南無大師遍照金剛
次回は九州八十八ヶ所百八霊場第九十七番札所「国見山 大国寺」をお伝えしてまいります。
願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを 合掌
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