竹笋生|たけのこしょうず|2024年|竹|笹|竹取物語|初鰹

歳時記
竹笋生 たけのこしょうず


例年ですと梅雨入りが宣言されてもおかしくない沖縄は未だ梅雨入りが発表されず、少し回復してきたダムの貯水率が再び減少する懸念される状況です。
そのような中、15日はアメリカの施政権下にあった沖縄が日本に復帰した「沖縄本土復帰記念日」を今年も迎えます。
七十二候は立夏の末候「竹笋生(たけのこしょうず)」と移り、粛々と何事もなかったかのように繰り返していきます。

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竹笋生(たけのこしょうず)

竹笋生(たけのこしょうず)」はタケノコがあちらこちらからヒョッコリ顔を出し始める頃という意味ですが、多くの皆さんは「えっ!?これから?」と違和感を感じられる方も多いかもしれません。

竹笋生 たけのこしょうず

多くの方が「タケノコの旬」と感じるのは3月から4月ではないでしょうか。
その頃、竹林で顔を出し始める「タケノコ」は中国原産の孟宗竹で、この七十二候で告げられる竹笋は日本に古来からある「真竹」を指しています。

竹と笹

今回もよく似た植物の話ですが、皆さんは竹と笹の違いをお分かりになりますか。
実は竹も笹もイネ科タケ亜科に属する植物で同じものではありますが、竹と笹には若干の違いがあります。
その分け方は一部違いはありますが、概ね大きさでその呼び名を分けています
竹の名の由来は「高い、丈」からきていると言われるため大型のものを「竹」と呼んでいます。
一方「笹」は「ささやか」に由来しているため「ささ」となりました。
そしてタケノコにみられる「おにぎり」や「お弁当」を包む用途で知られるあの皮ですが、竹は成長するにつれその皮は剥がれ落ち、茎の表面はツルツルになります。
他方「笹」は皮が残ります。

さらに竹は節から出る枝は2本であるのに対して、笹は3本以上、5~6本というのが普通です。

また竹は寒冷地では育たず、笹は寒冷地でも育ちます。ということから「笹」は日本固有のもので海外でも「SASA」と呼ばれます。

食材としての竹

春の味覚としてポピュラーな「タケノコ」ですが、一般に流通しているものの大多数は「孟宗竹」です。
孟宗竹は肉厚でエグ味が少ないためタケノコの中では非常に扱いやすい食材です。
一方、真竹は多少エグ味が強いため必ずあく抜きをしないとならないのですが、ほんの少しだけ頭を出した状態ではエグ味も少なく刺身でも食べられるほどだそうです。本州以南ではやはりタケノコは春を感じる食材の王様かもしれません。

味覚 グルメ 筍 たけのこ

では東北以北はどうかというと、こちらは笹の仲間ですが、「姫タケノコネマガリタケ)」が6月ころから旬を迎えます。アクが少ないため皮つきのまま焼いたり、蒸したりして春の味覚として珍重されています。

姫タケノコ ネマガリタケ

竹取物語

「竹」といえば「竹取物語」が思い浮かびます。言わずと知れた「かぐや姫」の物語です。
しかしこの物語、謎多き物語で詳細を説明しようと思っても諸説入り乱れ専門家の皆さんでも様々な論争が未だに存在します。
日本の月周回衛星の名前ともなった、主人公の「かぐや姫」の「かぐや」ですらその由来は様々です。

ということもあり、ここでは一般的なお話をさせていただきます。

あらすじ

学校の古文の時間や、受験勉強で「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」という書き出しを暗記した方も多くおられると思いますが、そのあらすじは概ね、その誕生、そして成長し男性からの求婚話、さらに月へと帰っていくという三部構成になっています。

竹取物語 かぐや姫

竹を取り、様々な生活用品を作り、それを生業としていた讃岐の造(さぬきのみやつこ)というおじいさんがいつものように山に竹を取りに出かけると一本の光る竹を見つけました。
その光る竹筒の中に小さな赤ちゃんが座っていました。
おじいさんはきっと縁のある子供に違いないと家に連れ帰り、おばあさんとその子を大切に育てました。
すると不思議なことにその後おじいさんが竹を切ると次々とその竹の中から金が出てきて段々裕福になっていきました。

その子は三か月ほどで12、3歳の大きさまで成長したので成人の儀式が行われ、朝廷に祭祀を司る人に「なよたけのかぐや姫」と名付けてもらいました。

そのかぐや姫は絶世の美女だったので天皇をも含め、多くの男性から求婚されたのですが、その志を確かめるため、それらの男性に敢えて無理難題を与えました。求婚に熱心だった五人の公達(きんだち)のいずれもその難題を叶えることが出来ず、さらには天皇の求婚まで拒み続けました。

それから三年ほどたった春の日、かぐや姫は徐々に塞ぎ込む様になり、ついに自ら自分は月の都の者であり、近々月へ戻らなければならない旨を打ち明け、かぐや姫自身も情が残り月には戻りたくないが、定めには従わずにはいられないと話しました。

それを伝え聞いた天皇も兵を送り、守ろうとしたのですが、その抵抗も叶わず月からの迎えに従いかぐや姫は老夫婦に着物と手紙を、その頃には求婚は諦めたものの文の交換を重ね心を通わせていた天皇には手紙と不死の薬を遺し、地球にいたころのすべての記憶を忘れ、月へと帰っていきました。

月に帰るかぐや姫

ちなみに余談ですが、手紙と不死の薬を遺された天皇も悲しみに暮れ、その手紙と不死の薬を焼くため、天に一番近いと言われていた駿河の山にたくさんの兵を連れて登ったことから、士(兵士)が富む山、不死をかけて「富士の山」と呼ばれるようになったという伝承も残っています。

かぐや姫と竹笋生

ここでかぐや姫の成長を読み返すとわずか三年で12、3歳の大きさまで成長したという件は、竹の成長の早さからきているのかもしれません。
実際、タケノコの成長スピードは、節ひとつひとつに生長点があるため早く、2~3ヶ月で20メートルもの高さになり、ピーク時には1日に80~100センチも伸びるといわれています。
このように竹は猛烈な速さで伸びていきます。

たけのこの成長

この成長の早さにあやかってか、「スクスク育て」という意味を込めて縁起の良い食材として「お食い初め」に供されることも多いようです。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

この時期「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という俳句をよく耳にされることもあると思いますが、、江戸中期の俳人・山口素堂が春から夏にかけ、江戸の人々が最も好んだものを詠んだ俳句です。

このように春のグルメと言えばタケノコの他に「」が挙げられます。
鰹の旬は年に二回あり、春から初夏にかけて黒潮に乗って北上してくる鰹を「初鰹」と呼んでいます。
江戸時代、初鰹は庶民には「まな板に 小判一枚 初鰹」と謡われるほど、高価ではあったものの、江戸っ子の「初物好き」とともに長生きできる縁起の良い「初物」として広まりました。

その「初物」とはその旬の季節になって、初めてできた穀物・野菜・果物など、あるいは盛りの季節に先がけてとれた走りの魚類などを言いますが、その年初めて食べるものを指して言うこともあります。

そして昔から、初物(はつもの)は縁起がよく食べると寿命が75日延びると言われてきました。
この75日とされる理由には諸説あるそうですが、中国から伝わる陰陽五行説に基いた季節の区切りの考え方や、種をまき、発芽して収穫までの日数がおよそ75日であることなどがあげられています。このように、うわさ話というものはそう長く続かないというような意味で「人のうわさも七十五日」とも言われますが、ひとつの区切りとして、75日という日数が使われてきたようです。

初鰹

一方、二度目の旬である秋から冬にかけて水温の低下とともに三陸沖から関東以南に南下してくる栄養をたっぷり取り込み脂ののった鰹を「戻り鰹」といってその時期の鰹も好まれていますが、初鰹はそのさっぱりとした味わいが江戸っ子の「粋」の象徴でもありました。

沖縄本土復帰記念日

5月15日は、沖縄本土復帰記念日です。

1971年(昭和46年)佐藤内閣総理大臣とニクソン米国大統領との会談で結ばれた「沖縄返還協定」が、1972年(昭和47年)5月15日午前0時をもって発効し、第二次世界大戦以来、27年間アメリカの施政権下にあった沖縄県が日本に復帰しました。
その当時、沖縄では、通貨としてアメリカ軍発行のB円(ビーえん)やドルが使われ、道路は日本本土とは反対の右側通行で、沖縄を出る際にはパスポートが必要でした。
日本政府は「本土並み」の復帰を目指したが、実際には多くの米軍基地や弾薬庫、演習場などが残され、2023年(令和5年)時点でも在日米軍専用施設面積の約70%が沖縄県に集中し、沖縄本島の14.5%が米軍基地に占められています。また、本土との経済格差も残る結果となっています。

日本政府は返還協定発効の日に合わせて沖縄復帰記念式典の開催準備に着手しました。
当日、日本政府主催の式典が、東京会場(日本武道館)と那覇会場(那覇市民開館)の両会場で同時に実施されることとなりました。

那覇会場では、山中総理府総務長官(当時)に続いて、屋良朝苗・初代沖縄県知事(前琉球政府行政主席)が挨拶に立ちました。
政府主催式典での屋良沖縄県知事の挨拶では、将来を予測し、険しい態度も示しました。

その挨拶の全文は以下のようなものでした。

屋良朝苗初代沖縄県知事、沖縄復帰記念式典挨拶全文

「沖縄百万県民の長年にわたる祖国復帰の願望が遂に実現し、本日ここに内閣主催による沖縄復帰記念式典が挙行されるにあたり、沖縄県民を代表してごあいさつ申し上げることができますことを生涯の光栄に思います。
 私は、いま、沖縄がこれまで歩んできた歴史の一齣一齣をひもとき、殊に終戦以来復帰をひたすらに願い、これが必ず実現することを信じ、そしてそのことを大前提としてその路線に沿う基礎布石、基盤づくりに専念してきた者として県民とともにいい知れぬ感激とひとしおの感慨を覚えるものであります。
 私は、復帰への鉄石の厚い壁を乗り越え、けわしい山をよじ登り、茨の障害をふみ分けて遂に復帰に辿りついてここに至った県民の終始変わらぬ熱願、主張、運動、そこから引き出された全国民の世論の盛り上がり、これにこたえた佐藤総理大臣をはじめ関係ご当局のご熱意とご努力、さらには米国政府のご理解などを顧みて深く敬意を表し、心から感謝を申し上げるものであります。
 それと同時に、きょうの日を迎えるにあたり、たとえ国土防衛のためとはいえ、さる大戦で尊い生命を散らした多くの戦没者の方々のことに思いを馳せるとき、ただただ心が痛むばかりであります。
 ここに、謹んで沖縄の祖国復帰が実現いたしましたことをみ霊にご報告申しあげますとともに、私ども沖縄県民は、皆さまのご意志を決して無にすることなく、これを沖縄県の再建に生かし、そして、世界の恒久平和の達成に一段と努力することを誓うものであります。
 さて、沖縄の復帰の日は、疑いもなくここに到来しました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません。
 しかし、沖縄県民にとって、復帰は強い願望であり、正しい要求でありました。また、復帰とは、沖縄県民にとってみずからの運命を開拓し、歴史を創造する世紀の大事業でもあります。
 その意味におきまして、私ども自体が先ず自主主体性を堅持してこれらの問題の解決に対処し、一方においては、沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除して県民福祉の確立を至上の目的とし、平和で、いまより豊かでより安定した、希望のもてる新しい県づくりに全力をあげる決意であります。
 しかしながら、沖縄に内包する問題はなお複雑なものがあります。幸い、私ども沖縄県民は名実とも日本国民としての地位を回復いたしましたし、政府ならびに全国民の皆さまにおかれては、沖縄問題を新しい立場から共通の課題として止揚していただき、その完全・全面的解決のためこれまで以上のご関心とご協力を賜わりますよう念願するものであります。
 沖縄は、長く、苦しかった試練を乗り越え、いまここにその夜明けを迎えました。復帰は、まさしく沖縄という新しい生命の誕生でありますし、私ども県民は、これまでの基地の島という暗いイメージを払拭し、新たな自覚にたって県民自治を基調とする「平和で、明るい、豊かな県づくり」に邁進するとともに、文化豊かな社会の建設に真剣に取り組み、国家繁栄のために貢献する決意であります。
 沖縄の戦後はまさに茨の道でありましたが、県民の体験はまた貴重なものであります。私どもは、きのうのきょうではなく、歴史上銘記さるべきこの日を転機としてとり残されてきた歴史に終止符を打ち、体験を生かし、国民の皆様のご協力も得て復帰の意義と価値を高め、その正しい位置づけに十分努力するつもりであります。
 本日の式典にさいし、私どものためにいろいろと、おはげましを賜わりました皆さまのご好意に対し厚くお礼を申しあげ、皆さまと国のこの上ないご繁栄を祈念してごあいさつといたします。」

本土では、5月15日といえば、1932年(昭和7年)に起きた昭和以降、最初のクーデター(反乱事件)で、武装した陸海軍の青年将校達が内閣総理大臣官邸に乱入し、第29代内閣総理大臣・犬養毅を殺害した五・一五事件が想起されることも多いかもしれません。

結詞

冒頭にも書きましたが、ウクライナへのロシアの軍事侵攻・イスラエルとパレスチナの戦争、そして燃料高騰や円安などの影響による物価高騰など梅雨のごとく暗雲の垂れこめたような空気に包まれてしまっています。

蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ

そんな何かとスッキリとしない微妙な時節ではありますが、暦は20日より二十四節気は「小満しょうまん)」そして七十二候は「蚕起食桑かいこおきてくわをはむ)」となります。

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