九州四十九院薬師霊場 第三十四番札所 平山山 平仙寺

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九州四十九院薬師霊場
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平仙寺は、天正16年(1588年)に堯珍法師が開山したといわれています。堯珍法師はもとは島原温泉山の七百坊惣座主でしたが、天正年(1573〜92年)キリシタン教徒に襲われ、温泉山の堂舎仏閣を焼失。堯珍は二矢を負って湯江に逃れ、やがて諫早に着き、船越村本坊に住しましたが数年を経て、諫早鍋島家初代当主・龍造寺家晴、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、現在の平山山平等院平仙寺に安住しました。
その後、諫早家の安泰と領内安寧の祈願寺として応分の寺領を与えられるようになり、代々法印(僧位の最高の位)住職となり、この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師寺建立や、この護持のための田畑の寄附などが多く寄せられ繁栄しました。

九州四十九院薬師巡礼より

霊場本尊・薬師如来について

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじける心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

『概略』

平山山 平仙寺
(霊場御朱印)

創建

天正16年(1588年) 堯珍法師 開山

宗派

天台宗

ご本尊

霊場御本尊 薬師如来坐像

ご真言 

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

寺院御本尊 不動明王

ご真言 

なまく さまんだ ばさらなん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん

ご詠歌

ひらやまの
医王の慈悲を おろがみて
今も変らぬ 法の灯てらす

住所・連絡先

長崎県諫早市上野町12-1 TEL 0957-22-0712
(地図)

アクセス

【電車・バスの場合】
JR諫早駅よりタクシーで5分
または島原鉄道・本諫早駅より徒歩7分
【車の場合】
島原道路・諫早南バイパス・栗面ICを出て7分

駐車場あり(普通車30台可)

諫早藩の祈願寺として

諫早の歴史は、室町末期に西郷氏の六代尚善が城下町を整備、干拓にも力を注ぎましたが、天正15年(1587年)八代純堯のときに龍造寺家晴に敗れて滅亡しました。
家晴のあと二代直孝の時に佐賀鍋島藩の支藩となり、諫早を名乗ったのが始まりと伝わっています。

寺伝には、天台宗の総本山である比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院や触内四坊(福聚坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈願寺として隆盛しましたが、明治維新の神仏分離令により諫早藩の加護も絶え、寺領はことごとく上地、さらに火の神の災いにも見舞われて栄枯盛衰を余儀なくされました。

時を経て、昭和42年(1967年)には旧諫早家の建物を買い取り、本堂と庫裡に改築。
昭和59年には庫裡等を新築し、さらに土地区画整理事業を契機に、位牌堂を備えた会館および山門を新築し現在に至るそうです。

本堂には本尊の不動明王が安置され、左脇壇に平成11年に修復された金色の薬師如来坐像が奉安されています。

農民一揆

諫早は中世以降は仏教の盛んなところでした。
現在、県下に散在するキリシタン遺跡も諫早にはなく、あるのは干拓に命をかけた人々の物語とその遺産です。

そんな諫早でも一揆は起きました。
それは純然とした百姓一揆と言ってよいでしょう。

江戸時代幕府は、諸大名の勢力増大をそぐために種々の課役を命じました。
参勤交代もその一つで、佐賀本藩も同様に支藩の諫早領に財政の負担をかけました。

寛延3年(1750年)日頃の不満が爆発して諫早領内に百姓一揆が勃発しました。
ことは諫早領主、茂行が佐賀藩主の擁立問題に関わったとして4000石を没収、蟄居を命じられたことに端を発しました。

農民たちは、身分は足軽でも儒者として信望の厚かった若杉春后を指導者に担ぎ、当初は長崎奉行に直訴を企てましたが失敗に終わり、そこで総勢14000人が多良に集まり佐賀本藩に訴えることにしました。
慌てた佐賀藩では首謀者を捕らえて磔の刑に処しました。
この時若杉春后は72歳だったそうです。
この他にも磔6名、獄門9名、生害7名、切腹3名を含む57名が処刑され、農民の敗北に終わりました。
しかし、明和4年(1767年)本藩より4000石を返還されて農民の暮らしも少し安らいだそうです。

南無根本伝教大師福聚金剛

諫早干拓の歴史は、中世にさかのぼり、長年にわたる農地開発の積み重ねと、1989年に始まった大規模な「国営諫早湾干拓事業」の二つの側面があります。前者では、鎌倉時代末期から干拓が繰り返され、長崎県最大の穀倉地帯である諫早平野が形成されました。
後者は、食糧増産、防災、農地確保を目的とした巨大公共事業ですが、環境問題や漁業補償を巡る訴訟など、大きな議論を巻き起こしています。

次回は九州四十九院薬師霊場 第三十五番 針尾山 祇園寺をお伝えしてまいります。

願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と
みなともに仏道を成ぜんことを 合掌

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