九州四十九院薬師霊場 第四十二番札所 妙台山 見明寺

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九州四十九院薬師霊場
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寺伝によると、見明寺は千葉氏中興の祖・千葉常胤によって鎌倉時代に創建されました。天長5年(828年)に円仁和尚が開基したとの伝承もありますが、詳しくは不明となっています。

見明寺を創建した千葉氏は、室町時代に全盛期を迎え、当時は肥前国最大の勢力だったとされています。千葉氏隆盛のころは妙見信仰が栄えており、見明寺の北東にはその社がありました。天明年中(1781〜89年)に伽藍が焼失して寺宝、文書等が失われてしまい、現存する過去帳・什物帳は、永正年中(1504〜21年)に作成された過去帳を元禄3年(1690年)に僧豪深が書写したものとなっています。
明治維新の廃仏毀釈、廃藩置県によって所領を上地され、その後、昭和20年代に中興して現在に至ります。檀信徒の協力により、平成8年(1996年)に本堂・庫裡が再建されました。

本堂内部の須弥壇にはご本尊の薬師如来像が安置され、脇仏には鎌倉時代の作風が偲ばれる阿弥陀如来立像が祀られています。

九州四十九院薬師巡礼より

霊場本尊・薬師如来について

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじける心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
 世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
 困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

『概略』

妙台山 見明寺
(霊場御朱印)

創建

焼失により寺史は不詳
寺伝によると
鎌倉時代 千葉常胤 創建
828年 円仁和尚 開基

宗派

天台宗

ご本尊

寺院・霊場御本尊 薬師如来坐像 薬師堂

ご真言 

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

ご詠歌

るりいろの
おくにひそめし かみがみの
まえにはべりし ひとぞめでたし

住所・連絡先

佐賀県小城市小城町晴気1966 TEL 0952-72-6479
(地図)

アクセス

【電車・バスの場合】
JR唐津線・小城駅よりタクシーで8分
またはJR唐津線・東多久駅よりタクシーで7分
【車の場合】
国道203号・多久ICより10分

駐車場あり(普通車20台可)

晴氣薬師(はるけやくし)

天山山麓を拓けた町、芳賀氏の岩蔵谷には嘉瀬川の支流祇園川が、西の晴気谷には牛津川が流れて、平野部を潤して有明海に注ぎます。
その天山南西麓に見明寺はあります。

見明寺を創建した千葉宗家は大きく乱れて衰退することになったわけですが、その争いは「土一揆合戦」といわれ、嫡流が途絶えた千葉氏は末裔の胤朝を跡継ぎに迎えましたが、その弟、胤将が乱を起こし、小城城を攻め、胤朝を殺害しました。

そこで後見人だった太宰府の少弐政資が胤将を追討し、自身の弟胤資が胤朝の娘を娶り晴気城に構えて、西千葉の祖となりました。
その内紛を機に侵攻してきたのが周防守護の大内氏で、胤将の弟・胤盛をかつぎ牛頭城を奪取し、東千葉を名乗って相争いました。

この争いを境に千葉宗家は衰退の一途を辿ることになります。

南無根本伝教大師福聚金剛

千葉氏隆盛のころは妙見信仰が栄え、見明寺の北東に妙見神社があり、節分会には護国三部経を誦し、星供の息災護摩供が執り行われています。
妙見信仰では妙見菩薩が崇められ、その妙見菩薩は北斗七星を神格化した天部の尊で、国土を守護して災害を除き、人民の福徳を増す菩薩様です。
本地は観音または七仏薬師とされていて、七仏薬師は政治の失脚者または為政者の怨霊を鎮める仏として篤い信仰がありました。

次回は九州四十九院薬師霊場 第四十三番 広厳山 常福禅寺をお伝えしてまいります。

願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と
みなともに仏道を成ぜんことを 合掌

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