
薬王寺は、本尊に薬師如来を祀る曹洞宗の寺院です。「長崎県大百科辞典」によると、前身は養性庵と称されていました。
天正14年(1586年)4月5日、現薬王寺の背後の丘陵地にあった井手平城が大村・有馬の連合軍に敗れて落城し、城主の岡甚左衛門を筆頭に城兵のほとんどが戦死します。これを哀れんだ平戸藩主の松浦隆信は、天正20年(1592年)に洞谷山を城持山へと改称し、戦死者の霊を弔うため養性庵を再建しました。
その後、元禄年中(1688〜1704年)萬海素休和尚の代に養性庵の寺地から城跡の現在地へ移転、再建されます。
この時に平戸瑞雲寺九世・大虚舜道和尚を開山に迎え、併せて井手平城合戦の戦死者の追善供養が営まれました。
霊場本尊・薬師如来について
薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじける心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。
左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。
医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。
病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。
薬師の十二大願
1.光明普照
自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す
ご真言
おん ころころせんだり まとうぎ そわか
『概略』
城持(じょうじ)山 薬王寺
(霊場御朱印)

創建
冒頭文及び本文参照
宗派
曹洞宗
ご本尊
寺院及び霊場御本尊 薬師如来坐像 本堂内陣
ご真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌
濁りなき
心の水に すむ月は
波も砕けて 光とぞなる
住所・連絡先
長崎県佐世保市新替町263 TEL 0956-30-8605
(地図)
アクセス
【電車・バスの場合】
JR佐世保線・三河内駅より徒歩15分、またはタクシーで3分
【車の場合】
西彼杵道路・西海パールライン有料道路から指方バイパス・国道202号に入り14分
駐車場あり(普通車20台可)
井手平城址に建立
佐世保市は、長崎市と並び称されるほどの都市となりましたが、昔は平戸藩に属する戸数わずか800余りの鄙びた寒村にすぎませんでした。
明治に入り第三海軍の鎮守府が設置され急速に発展しました。

市街の外の田園風景の中に薬王寺があります。前身は養性庵と称されていました。

平戸藩主の松浦隆信の命により、養性庵を現在地に移転し、寺院の山門左手には供養塔と石碑があり、ともに井手平城合戦(後述)を知る貴重な民俗資料となっています。
当時、平戸藩は南蛮貿易で栄えていました。
薬王寺はこうした財により復興していきました。

本堂は和様造り、内陣にご本尊の薬師如来坐像が奉安されています。
井手平城合戦
井手平城は小森川とその支流に挟まれた丘陵に築かれている。 上宮神社背後の半独立丘陵と、その北東、小森川に面して南へ伸びた丘陵に築かれていました。
天正14年(1586年)、事前に大村・有馬・有田・波多の連合軍が攻めてくるという情報を得ていた平戸方は、南方面最前線の城、井手平城に、城主岡甚右衛門、その長男と次男、副将の堀江大学、松口六左衛門、岡野甚太郎、長峰久助、悪多々佐市、武雄秀ト、丸田宮内、山田久之丞、迎兵部、大渉野左馬、中倉甲右衛門、中倉太右衛門、吉田九郎右衛門、山口権左衛門、小佐々伊豫、友永主殿などの都合300人を配置し、きたるべき戦いに備えていました。
4月19日。寄手の波多・有田の軍は内野口より、有馬・大村の軍は神徳寺より城を三重四重にとり巻きました。
まず一斉に矢をかけ、続けざまに鉄砲隊による攻撃をかけてきました。
城側も矢と鉄砲で応戦しました。
壮絶な打ち合いとなり、両軍とも半分以上の兵は討たれて、いったん引きましたが、なにぶん連合軍は大勢であり、新手を入れ替え入れ替え、次から次に休まず攻撃してきたので、小勢である城中は数度の攻撃に討死する者が多くなっていきました。
人数も残り少なくなってきました。
けれども、もはや死を決した兵達であり、手強く、その気迫に連合軍側は少々ひるみました。
それを見た波多軍の波多源次兵衛は馬を乗り巡らし、「しっかり戦え!多くの兵がこのように一・二の木戸口まで攻め寄せている。しかも小勢が籠もっただけの葉城ではないか!どうしてつぶれないことがあろうか!」と叱咤したのでふたたび寄手は勢いづきました。
城中では、かねてよりここを墓所と決めていたので、女・子供を山路より終夜、広田城へ逃がし、命を塵芥(じんかい)より軽くし、心中は爽やかになっていた。
夜が明ければ、今日を最後の盃をくみかわし、岡野甚太郎は長刀を横たえ、敵の中へ何のためらいもなく懸け入って、四・五人を切り伏せ討ち死にしました。
加勢に加わっていた薬師坊が城中に帰って見れば、松口六左衛門はすでに切腹し、松口の末っ子の小五郎(13歳)は腹を切ろうと、推膚抜いでいました。
「いかに小五郎殿、親のためには敵の一人も討ち取ることこそ孝行であろう」と引き立て、小五郎と共にまた敵の中へかけ入り、一つ枕に討ち死にを遂げました。
そして遂には、城に残った兵は十二・三人だけとなっていました。
いよいよ正念場だと残った武士達は大刀を抜き敵の中へ一団となって打ち出しました。
わき目も振らずに戦い、一人二人と討ち死にしていくなか、椎葉と紫加田は身に傷を負うのを物の数ともせず、敵中を突破し、広田城を目指して駆けていました。
しばらくすると前方に敵方の兵が行く手をふさいで立っていました。
「落武者が通るぞ、逃がすな!」と騒ぐので、「お前たちは何をあわてているか。」と目をいからせれば敵方もその迫力に押され、味方と思い通してしまいました。
それでもなお疑わしく思ったのであろうか、四・五人が追いかけてきたので打ち払い、広田城へ帰りました。
振り返り井手平城の方角を見れば、黒煙がもくもくと天に上っていました。
南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師
寺宝に白磁の白衣観音と千手観音がありますが、焼き物の里に相応しい仏様たちです。
次札所の第三十七番の三間山 東光寺は九州八十八ヶ所百八霊場のカテゴリーにて既に公開してありますのでご参照ください。
次回は九州四十九院薬師霊場 第三十八番 日輪山 安福寺をお伝えしてまいります。
願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と
みなともに仏道を成ぜんことを 合掌


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