九州四十九院薬師霊場 第三十三番札所 長寿山 龍泉寺

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九州四十九院薬師霊場
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龍泉寺は、本尊に釈迦牟尼仏を祀る曹洞宗のお寺です。「西有家町誌」によると、元禄2年(1689年)島原藩主・松平忠房公は、村民の拠り所として島原村晴雲寺の末寺となる長寿山龍泉寺を建立し、卓峰周恩和尚が開山しました。

その後は不詳ですが、明治8年(1875年)に県令(今でいう県知事)へ提出された報告書によると、本堂に木造の釈迦牟尼仏など8体を安置、大般若・法華経などを所有していたとされていますが、戦後の火災により焼失。現在は本堂・位牌堂・庫裡・観音堂・山門などがあり、観音堂には正徳元年(1711年)に藩主松平忠雄が奉納した十一面観音菩薩が祀られています。

明治維新の神仏分離の際、かつての島原の乱を教訓に長崎県の神社仏閣の多くが新政府の令に従っていましたが、その中でも龍泉寺は頑なに法灯を守り通しました。薬師如来が祀られている薬師堂は、龍泉寺の後方、国道に面した台地に構えられています。今でも人々の信仰は篤く、香華の絶えることがありません。

九州四十九院薬師巡礼より

霊場本尊・薬師如来について

薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といいます。
日光菩薩、月光菩薩の脇士と十二神将が一体となって、仏の心「慈悲の心」を表しています。即ち、私たちの病気の苦しみを除いて、安楽を与えてくださる現世利益の「ほとけさま」です。
薬師如来が説法している時の手の相(印相)、右手は施無畏印で、わたしたちの色々と恐れおじける心を取り除き、安心させてくれるサインです。
痛いところへすぐ右手が飛びます。これが「手当て」です。手の指には仏の世界でいう仏の名があり、薬指が薬師如来です。施無畏印で薬指を少し前に出すことで薬師如来を象徴しています。

左手は与願印で、平安時代以後の薬師如来は薬壷を持っておられます。
くすりつぼは、人の寿命を延ばす意味をもつといいます。現代人は薬によって病気が治ると頼りがちでありますが、病気を治すのは、私たちの体内にある自然治癒力が最も肝心です。

医療や薬品は、その自然治癒力を高め、援助する役割を持つのであります。「病は気から」とも言います。この治すという「気力」をバックアップしてくれるのが、お薬師様です。
私たちが病気になったとき、その病気をおそれず、医薬の効果を高め、強く生きる力を与えてくださいます。その上に、「病気の善用」も諭していただけるのです。
お薬師信仰を深めることは、健康で、病気を苦にすることなく、安楽で、幸せな日暮らしが期待できるのです。

病の苦しみを救う、寿命を延ばす、そして貧困からの救済等々十二の大願を成就して如来となられた仏様です。
尊像は病気平癒や延命を願って作られたものが多いため、左手に万病に効く薬が入っている薬壺(やっこ)をお持ちになっておられます。
また薬師像は三尊像としてお祀りされることも多く、その際は脇侍に日光・月光菩薩の二尊が従われることが多く、さらに眷属として十二神将も従えることもあります。

薬師の十二大願

1.光明普照
 自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く
2.随意成弁
 仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる
3.施無尽物
 仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す
4.安立大乗 
世の外道を正し、衆生を仏道へと導く
5.具戒清浄
 戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける
6.諸根具足
 生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす
7.除病安楽 
困窮や苦悩を除き払えるよう援ける
8.転女得仏
 成仏するために男性への転生を望む女性を援ける
9.安立正見
 一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける
10.苦悩解脱
 重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける
11.飽食安楽
 著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く
12.美衣満足
 困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す

ご真言

おん ころころせんだり まとうぎ そわか

『概略』

長寿山 龍泉寺
(霊場御朱印)

創建

元禄二年(1689年) 松平 忠房 開基
            卓峰周恩和尚 開山

宗派

曹洞宗

ご本尊

霊場御本尊 薬師如来立像 薬師堂

ご真言 

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

寺院御本尊 釈迦牟尼仏

ご真言 

のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

ご詠歌

あらいその
波もえよせぬ 高岩に
かきくもつくべき 法ならばこそ

道元禅師 作

住所・連絡先

長崎県南島原市西有家町須川725 TEL 0957-82-2344
(地図)

アクセス

【電車・バスの場合】
島原港よりタクシーで30分
または島原港より島原鉄道・加津佐海水浴場前行きにて「翔南高校前」下車後、徒歩3分
【車の場合】
多比良港より約50分。または島原港より30分

駐車場あり(薬師堂:普通車4台、龍泉寺:普通車11台可)

島原の乱、廃仏毀釈を乗り越えて

西有家町は島原半島の南側に位置し、「島原手延べそうめん」として有名になっている、そうめん業の盛んな町です。
島原の乱以後、島原半島南部は廃墟と化していました。
そこで幕府の政策により、一万石あたり一人の割合で移民を送るように諸藩に命じました。

その政策の中、四国の小豆島ではくじ引きにて移民を決めていました。
その人々によって、そうめん作りの製法が伝えられたようです。

龍泉寺は元禄二年(1689年)に時の藩主 松平忠房公によって村民の拠り所として建立されましたが、その後についての詳しいことはわかっていません。
明治8年(1875年)県令に提出した報告書には
「本堂に釈迦牟尼仏など8体を安置、大般若・法華経などを所有していましたが火災により焼失し、他に位牌堂、庫裡、観音堂、山門などがある」とされています。

観音堂には、正徳元年(1711年)藩主・松平忠雄が奉納した十一面観音菩薩がお祀りされています。

明治維新の神仏分離に際しても、長崎の神社仏閣は島原の乱を教訓に、寺院の多くが明治新政府の判別令に従って、神社に改め、僧侶は還俗して神職となりました。
しかしそうした中でも、龍泉寺は頑なに法灯を守り通したそうです。

龍泉寺の後方、国道に面した台地に薬師如来が祀られている薬師堂があります。
構えはそれほどでもありませんが、人々に篤く信仰され、今でも香華が絶えることはありません。

島原の乱

大和国宇陀郡より入封した領主・松倉重政が将軍家光にキリシタンに対して取り締まりの手ぬるさを叱責され、松倉親子らは、キリシタンを厳しく取り締まると同時に、農民たちに過酷な税を課しました。また松倉父子は、自分の居城の建築費や江戸城の工事費を賄うために、あらゆるものに課税したといわれています。

さらにこの頃、島原一帯では暴風雨や日照りによる凶作が続き、飢饉(ききん)が発生します。
しかし、領主たちは税を軽くしないどころか、未納者の妻子を見せしめとして拷問するなどして、取り立てをエスカレートさせました。

こうしたことが続いて農民の不満は極限まで高まり、ついに村人が代官を殺害する事件が起こります。
この事件をきっかけに各地の農民たちが次々と蜂起し、大軍勢となったといわれています。

その乱には、ほとんどの住民が加わっていたため村は廃墟と化していました

南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師

西有家町には、遠い昔、高岩山に大男が住んでいました。
お人好しで力持ち、畑や山仕事を手伝って、百姓から味噌を貰っていました。
ある日のこと、畑で尻もちをついた拍子に、土が有明海に落ちて湯島となり、窪みは雲仙の空池となったという民話が伝わっています。

町ではその「みそ五郎」民話をもとに、そうめんのみならず、みそ五郎の里としても町おこしを行っています。

次回は九州四十九院薬師霊場 第三十四番 平山山 平仙寺をお伝えしてまいります。

願わくは
この功徳をもってあまねく一切に及およぼし
われらと衆生と
みなともに仏道を成ぜんことを 合掌

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