1月13日 源頼朝忌

今日は何の日

今日1月13日は「源頼朝忌」です。

鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の忌日で、陰暦の正月13日です。
源頼朝は、1147年に尾張(現在の愛知県名古屋市)で生まれ、源氏の棟梁である源義朝の三男として育ちました。
1192年に後鳥羽天皇によって鎌倉幕府初代征夷大将軍鎌倉殿)に任命され、鎌倉幕府を開きました。
これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。
1198年112月27日に橋供養からの帰路で落馬し、体調を崩して翌年1199年1月13日に満51歳で亡くなりました。

その死因については、相模川橋供養の帰路に病を患ったとされておますが、その原因は定まっていません。
『明月記』『愚管抄』『百錬抄』は「病死」、『猪隈関白記』は「飲水の病」、『吾妻鏡』は「落馬」、『承久記』は「水神に領せられ」、『保暦間記』は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記しています。
これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられています。

その中でも、落馬説は、1998年(建久9年)、重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に頼朝が落馬したということが『吾妻鏡』に記されていて、頼朝の死因として最も良く知られた説です。
しかしその話が『吾妻鏡』(後述)に登場するのは、頼朝の死から13年も後のことであり、「その橋が壊れて地元民が困っていたが、頼朝の落馬から縁起が悪いとずっと放置されていた」という内容でした。
死去した当時の『吾妻鏡』には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全くありません
これについては、頼朝の最期が落馬という不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったとする俗説もありますが、『吾妻鏡』には徳川家以外に伝来する諸本もあるためその不記載は事実ではないでしょう。
また、『吾妻鏡』に記されているのは「頼朝が落馬してから間もなく亡くなったため縁起が悪い」ということなので、必ずしも落馬が原因で死亡したとは書かれていません

なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なります。
落馬は結果であるとするならば、脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、あるいは落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたとも考えられます。
落馬から死去まで17日あることから、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性もあります。

前出の『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書です。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記しています。
成立時期は鎌倉時代末期の1300年(正安2年)頃で、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られています。
後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻は欠落)と言われています。
吾妻鏡は、空白期間の存在が知られており、1196年から源頼朝が死去した1199年までの重要な約3年間が記録がなく、他にもほぼ欠落している部分もあります。

編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料であることには相違なく、日本における武家政権の最初の記録と評されています。

さて、死後、頼朝の亡骸は彼の持仏堂に葬られました。
持仏堂は1200年(正治2年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれています。
11779年(安永8年)2月には、薩摩藩主・島津重豪が現在の石塔を建てました。
明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、1872年(明治5年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられました。
なお石塔は、1927年(昭和2年)に「法華堂跡源頼朝墓)」として国の史跡に指定されています。
そして2006年(平成18年)7月28日に、隣接地にある「北条義時法華堂遺構」が史跡に追加指定され、「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と名称変更されました。

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