12月20日 コザ暴動(事件)が発生した日

今日は何の日

今日12月20日はコザ暴動(事件)が発生した日です。

コザ暴動は、1970年(昭和45年)12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄のコザ市(現:沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件です。
直接の契機はアメリカ軍人が沖縄の人をひいた交通事故でしたが、背景に米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄の人の不満がありました。
地元の沖縄では、「暴動」ではなく地元新聞2紙の記事ではコザ騒動(そうどう)、またコザ事件(じけん)、コザ騒乱(そうらん)と記載されています。

事件の顛末

同日午前1時過ぎ、コザ市の中心街にある軍道24号線(現在の県道330号線)を横断しようとした現地軍雇用員(酒気帯び)が、キャンプ桑江のアメリカ陸軍病院所属のアメリカ軍人(同じく酒気帯び)の運転する乗用車にはねられ、全治10日間ほどの軽傷を負う事故が発生しました。
現場には5台のMP(アメリカ軍憲兵)カーと1台の琉球警察パトカーが出動、負傷者の病院搬送と現場検証、加害者の事情聴取を行いました。
その間、現場に隣接する中の町社交街から地元住民が集まり始めました。
MP)による事故処理に対し「犯罪者である外人男を逃がすな」と不信・不満を口々に叫び騒然となりましたが、警察官の機転で加害者はコザ警察署(現沖縄警察署)に移送されました。

事故現場に残っていた20~30人がMPに詰め寄るとMP側は空中に威嚇射撃を行いましたが、これが火に油を注ぐ結果となり群衆はMPカーに放火、さらに近くにあった中之町派出所も襲撃し、投石で窓ガラスなどを破壊しました。
この時点で数100人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色のナンバープレートによって区別されていたアメリカ軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請しました。
事故車両の移動が済んだ午前1時35分ころ、現場に女性を連れたアメリカ兵が通りかかり、群集は彼らを「外人男が日本の女に手を出すな」「あばずれ」「売女」と叫びました。
MPは2人をMPカーに乗せ移動しようとしたが、群衆はMPカーを取り囲み横転させようとしました。
他のMP隊員の応援でカーは現場から脱出しましたが、群集は続いて他のMPカーを横転させようと動き出しました。
そして午前2時20分頃、反対車線で走路妨害にあったアメリカ兵運転の乗用車が、沖縄の人が運転する民間車両に追突しました。
集まっていた群衆はこれを取り囲み投石、アメリカ人運転手に暴行を加えました。
またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカーを横転させ、火を放ちました。

午前3時頃に、琉球警察は第三号召集(全警察官1200人の最大動員)を発令し、アメリカMPも完全武装の兵員配備を要請しましたが、騒乱発生現場の制圧は不可能と判断しいったん周辺へ退きました。
最終的に警察官は約500人、MP・沖縄の人の警備員約300人、米軍武装兵約400人が動員されました。
米民政府は午前3時30分、コザ市全域に24時間の「コンディション・グリーン・ワン(米軍用語で、警戒レベルを指す通称)を発令しました。

琉球政府では、当時の屋良朝苗行政主席が東京出張で不在のため、知念朝功副主席が午前5時55分に現地に到着して事態の収拾を指揮しました。
アメリカ軍が群衆に催涙弾を使用していることを知るとフィアリー民政官に電話をかけて「催涙ガスをやめろ、事態がかえって悪化する」と怒鳴りつけたそうです。

警察は宣伝カーを繰り出して群集に帰宅を呼びかけ、午前7時30分までに自然収束しました。結果、車両75台以上が焼かれ、80人以上の負傷者はでたものの、死者はなく、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生していません

事件の報道を受けて、それまでアメリカ軍支配に対して鬱屈した感情を抱いてきた沖縄の人の多くが快哉を叫びました。
逆に、高等弁務官ジェームス・B・ランパートは暴動当日、民間テレビ局を通じ、暴動を強く非難するとともに、予定されていた沖縄に装備されていた毒ガス移送の延期を示唆しました。
この発言は沖縄の人の怒りを買っただけでなく、アメリカ本国からも越権行為と批判され、毒ガス移送は予定通り進めることとなりました。
毒ガス兵器は、アメリカの領土であるジョンストン島へ撤去移送されました。

日本政府は米側に対し、事件の発生に遺憾の意を表明したうえで、沖縄住民の感情にも十分留意しつつ、再発防止のため原因究明に努め、円滑な沖縄復帰のために建設的な協力を申し入れました。
その結果、1971年1月5日、アメリカ軍は軍法会議に琉球政府代表がオブザーバーとして参加することを認めました。

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