12月9日 漱石忌

今日は何の日

今日12月9日は「漱石忌」です。

明治から大正時代の小説家・英文学者の夏目漱石が1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍により体内出血を起こし、『明暗』執筆途中に自宅で49歳の生涯を閉じました
お墓は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園にあります。

最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったそうですが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最期の言葉ともされています。

死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖されました。
その際に摘出された脳と胃は寄贈され、脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。

今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人で、代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』などがあります。
漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えです。
「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つでしたが、後に漱石は子規からこれを譲り受けていました。

ちなみに明治時代の文豪として1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された千円紙幣に肖像が採用されました。

夏目漱石について

1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下横町、現在の東京都新宿区喜久井町に生まれました。
本名は夏目金之助(なつめ きんのすけ)です。
父・直克(なおかつ)は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主でしたが、金之助は里子や養子に出されるなど不遇の幼児期を送りました。

児童期には漢詩文に親しみ、大学予備門で俳人・正岡子規(まさおか しき)を知り俳句を学びました。
1893年(明治26年)、後:東京帝国大学(現:東京大学)英文科を卒業。

1895年(明治28年)、松山の愛媛県尋常中学校(現:松山東高等学校)の英語教師となります。
松山は子規の故郷であり、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残しました。
翌1896年(明治29年)、熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師となりました。

その後、1900年(明治33年)、イギリスへ留学、帰国後1903年(明治36年)より東京帝国大学の英文学講師となりました。

講師の傍ら、1905年(明治38年)にデビュー作の長編小説『吾輩は猫である』を俳句雑誌『ホトトギス』に発表します。
これが評判となり『倫敦塔(ろんどんとう)』や『坊っちゃん』、『草枕(くさまくら)』などを執筆しました。

1907年(明治40年)、教職を辞して朝日新聞社に入社し、作家活動に専念します。
『虞美人草(ぐびじんそう)』や、前期三部作と呼ばれる『三四郎』、『それから』などを『朝日新聞』に連載していきます。

そして前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に持病の胃潰瘍で入院します。
伊豆の修善寺で療養しますが、大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ります。
この事件は「修善寺の大患」と呼ばれ、この一時的な「死」の体験は、その後の作品に影響を与えることとなりました。

作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』、『行人(こうじん)』、『こゝろ』へと繋がっていきます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました