
今日4月19日は地図の日・最初の一歩の日です。
1800年(寛政12年)のこの日、伊能忠敬(いのう ただたか)一行が蝦夷地の測量に出発しました。

忠敬は上総国(現:千葉県)出身の商人で、そこで造り酒屋を営み立派に繁盛させていたが、50歳の時に家督を長男に譲り、江戸へ出て測量・天文観測などを学びました。
測量にあたっては、幕府からの資金援助はあまりなく、測量器具や旅の費用のほとんどを自費で賄い計測を行ったと伝わります。

忠敬は当時55歳で、内弟子3人、下男2人を連れての測量となりました。
富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、師匠である高橋 至時(たかはし よしとき)宅で酒をいただきました。
千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めました。
千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わりました。
寒くなる前に蝦夷地測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動しました。
出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩(みんまや)に到達しました。

ちなみに、忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm、体重は55kg程度と推定されていて、歩幅は約69cmだったと導き出されています。
忠敬は自分の歩幅が常に一定になるように気を付けていました。
日頃の訓練により歩幅が同じになるようにしたのでした。
その正確な歩幅により作られた日本地図は誤差がほとんどなく、極めて正確なものとなりました。

その後、16年にわたって測量をして歩き、本格的な日本全土の実測地図である「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにしました。
「輿地(よち)」とは大地や地球、全世界のことを意味します。
この地図は、江戸幕府の事業として測量・作成が行われたもので、その中心となって製作した彼の名前から「伊能図(いのうず)」とも称されています。

実際に地図が完成したのは伊能の死後、1821年(文政4年)のことです。
縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしています。
この他に特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在しています。
すべて手書きの彩色地図です。


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