
今日4月5日は小笠原返還記念日です。
1962年(昭和37年)にケネディ大統領が南西諸島を日本領であると表明したことを受けて、日米間で協議が始められました。
そして1967年11月の佐藤首相とジョンソン米大統領の合意に基づき、1968年(昭和43年)のこの日に、第二次大戦後アメリカの施政下に置かれていた小笠原諸島を日本に返還する小笠原諸島返還協定が調印され、
同年6月26日に協定が発効し、日本に返還されました。
戦争と小笠原諸島
1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発しました。
最初の2年半の間は平静を保っていましたが、日本軍は1944年(昭和19年)5月に栗林忠道中将指揮の下、父島要塞守備隊を主力とした小笠原兵団を編成し、小笠原諸島の防衛にあたりました。
6月15日父島や硫黄島がアメリカ軍による空襲を受けたため、7月に硫黄島島民約1000人を含む島民6886人が日本本土へ強制的に疎開することになりましたが、825人の島民は軍属として残留しました。

1945年(昭和20年)2月19日から硫黄島の戦いが行われ、島民82人を含む21900人の日本軍将兵が戦死しました。
3月26日の日本軍の組織抵抗の終結に伴い、硫黄島はアメリカ軍の占領下に入りました。
なお、小笠原諸島のその他の島へはアメリカ軍の上陸作戦は行われず、終戦まで日本軍が保持しました。
しかしアメリカ軍によって補給線が断たれたために食料は欠乏し、軍属1人あたり1日に乾パン3個、米飯と味噌汁1杯しか支給されず、父島と母島を合わせて200名あまりが餓死しました。
8月15日の玉音放送ののち、9月3日にマハン級駆逐艦ダンラップが父島に入港しました。
ダンラップ艦上で降伏文書の調印が行われた結果、小笠原諸島の日本軍は連合国軍に降伏し、小笠原諸島全域が事実上アメリカ海軍の占領下に入ることになりました。
その後、1945年にはアメリカの施政下に入り、長い間、日本から離れていました。

アメリカ軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は 1か月に 1回グアム島からの軍用船によって行われました。
欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くはアメリカ軍施設で働いていました。
島民の自治組織として五人委員会が設けられました。
島の子供たちは、アメリカ軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で、アメリカ軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われました。
アメリカ軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは、日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉めるという後遺症を残しました。
また、後に日本国政府の意向を無視して、父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことが、アメリカの情報公開によって知れ渡ったり、軍政時代に数基の核弾頭が保管されていたようです。
1950年代にも国務省が小笠原の日本返還を検討したが、アメリカ海軍を始めとする国防総省が反対したため、頓挫しました。
その理由が核兵器の保管だったとそうです。
占領中は米英語教育が行われており、返還後、欧米系住民の子弟は、日本語教育が困難であるため、アメリカ合衆国に移住した者もいました。
親世代は外見は欧米人であるが、既に日本人として日本語教育を受けてきており、自分の子どもたちとうまく意志疎通ができない状況になっていました。
これも子弟が米国に渡るきっかけになりました。
しかし、この期間中、小笠原諸島ではアメリカ文化の影響を受ける一方で、独自の文化や生態系が育まれていきました。
現在の小笠原諸島について

小笠原諸島は、東京都特別区の南南東約1000kmの太平洋上にある父島、母島、硫黄島、南鳥島など30余の島々から形成されています。
1593年(天正20年)に小笠原貞頼(おがさわら さだより)が発見したと言われ、1875年(明治8年)に日本の領有が確立していました。

1972年(昭和47年)に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定されました。

2011年(平成23年)にはユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されました。
東京都初の世界遺産であり、唯一の自然遺産です。


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