
書く才能が、取り立ててあると思ったことはありませんが、もうすぐ人生70年を迎えるにあたり、ふと感じることは「書くこと」が好きなのではないかといいうことです。
姉妹コンテンツも多く作りましたが、いずれの文章もその記事を読んでくださる方々の少しでもお役に立てればなどと冷静に客観的に綴ってきましたが、振り返ると自分というものが無い「無機質な」文章だったような気がしています。

そこで、もう少し自分を曝け出し、人文本位の文章を綴りたくなり、「私・徒然草」と題して新コンテンツをはじめたいと思い立ちました。
さて手本ともなった『徒然草』第一段で兼好法師は、「つれづれなるままに」、つまり特に目的もなく、心に浮かんだとりとめのないことを書き連ねているだけだと言います。
そして、その行為を自ら「ものぐるほし」と、正気を失っているかのようだと評していますが、この一文には、随筆という形式の本質が端的に表れていると思っています。

一般に文章を書くことには、主張や結論、読者への影響といった目的が求められます。
しかし吉田兼好は、そうした目的性を最初から否定しています。
意味があるかどうかも分からないことを、ただ書く。その結果生まれる文章は、整然とした論ではなく、書き手の思考や感情がむき出しになった断片です。
だからこそ彼は、それを「狂っているようだ」と感じたのではないでしょうか。
その「ものぐるほしさ」は否定されるべきものではありません。
むしろ、人が本音や内面を言葉にしようとするとき、理性や社会性から少し外れる瞬間は避けられない部分もあります。
兼好法師はその危うさを自覚しつつも、書くことをやめなかった。
ここに、『徒然草』が七百年を経ても読み継がれる理由があるような気がしてなりません。

現代においても、SNS(ソーシャルネットワークサービス)や日記、エッセーなど、目的のはっきりしない文章が日々大量に書かれ、発信されています。
それらは、その筆者が有名、著名人ではない限り、しばしば無意味な自慰行為だと批判されますが、人が心に浮かんだことをそのまま言葉にする営み自体は、今も昔も変わりありません。
『徒然草』第一段は、意味の有無よりも、「書いてしまう人間の姿」そのものを肯定しているように感じます。
それを読むと、兼好法師は「暇だから、なんとなく思ったことを書いているだけだ」と言っているように感じます。
しかもそれを「ものぐるほし」、つまり自分でもおかしい行為だと分かっていながら書いています。
この正直さは、700年前の文章とは思えないほど今の感覚に近いように思えます。
私たちは普段、文章を書くときに「意味があるか」「誰かの役に立つか」を無意識に考えてします。
特にSNSでは、『いいね』の数や共感されるかどうかが基準になり、少しでも評価されそうな言葉を選んでしまいがちです。
しかし吉田兼好は、評価されることも、読まれることも前提にしていません。
ただ心に浮かんだことを書くだけだと…
だからこそ、彼はそれを「狂っているようだ」と表現したのだと思います。
本音をそのまま言葉にすることは、理性的で立派な行為とは言いにくいし、むしろ、他人にどう見られるかを一切考えない点で、危うく、未完成な行為にも近いように思います。
しかし若者たちが感じるモヤモヤや違和感も、まさにそうした未整理な感情から生まれているかもしれません。
『徒然草』第一段は、意味のある意見を書く前に、意味の分からない感情を書いてもよいのだと教えてくれます。
何者かになろうと急かされる現代において、吉田兼好の「つれづれ」は、評価から自由になるための静かな抵抗なのではないでしょうか。
古希を迎えようとする今、好奇心や感動する心を大切にしつつ、自分自身の感性で書き置いていきたいと思っています。

つれづれなるまゝに、日くらし、硯(すずり)にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
~吉田兼好著 『徒然草』より~
