九州西国霊場 第二十二番札所 竹崎山 観世音寺

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九州西国霊場
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竹崎山観世音寺は和銅2年(709年)、行基菩薩による開基と伝えられ、本尊千手観音は、札所14番雲巖寺の本尊などと一木同作といわれる「行基七観音」の内の一体です。

九州西国霊場~より

『概略』

竹崎山 観世音寺
(御朱印)

創建

和銅2年(709年)行基菩薩

宗派

真言宗

別称

竹崎観世音

ご本尊

千手観世音菩薩像(九州西国霊場ご本尊)

ご真言

おん ばざら たらま きりく

千手観世音菩薩について

別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によってどんな願いも見落とさず、悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。
蓮華王とは泰三界曼荼羅で観音が配される場所である「蓮華部」の中で、最高位となっています。
阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。

千手観音は、人々を救うための手が多い分、得られるご利益も多いと考えられています。そのため、災難除け、病気平癒などあらゆる現世利益を網羅しているのです。
そのご利益です。
厄災厄除・苦難除去・病魔退散・悪疫守護・諸願成就・平穏無事・頭痛平癒・病気(難病)平癒・奇病快癒

さらに、夫婦円満や恋愛成就、安産や子宝成就にも功徳があるとされていて、後生善処(ごしょうぜんしょと読みます。亡くなったあと来世でも幸せに過ごせることを言います。)などのご利益もあります。

また六観音(聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音または不空羂索観音・如意輪観音)の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。
餓鬼道に生まれ変わる人は、生前に自己中心的な生活を送っていたり、欲望のままに生きていた人々で、ノドの渇きも潤せず、食べることが叶わないため渇きと餓えに苦しみ続けると言われています。

H3 住所・連絡先

佐賀県藤津郡太良町竹崎248 TEL 0954-68-2854
(地図)

アクセス

JR長崎本線「肥前大浦駅」から徒歩約30分またはタクシーで10分
長崎自動車道武雄北方インターまたは諫早インターから約60分
駐車場有り

ご詠歌

わかたけの すぐなるのりの みちありと うきふししげき よにおしえなん

行基七観音と修正会鬼祭の寺(第二十二番札所 竹崎山 観世音寺)

正式には「補陀落院観世音寺」といいますが、古来より「竹崎観世音」の名で親しまれてきました。
弘法大師空海が、唐よりの帰途に立ち寄られてから真言宗となったとされています。

その後、この地は太宰府の管轄地となり、光孝天皇(時康親王)が仁和寺を創建される際、荘園として寄進されその末寺となったといわれています。

鎌倉時代には伽藍も整い、後深草天皇の時代には公家の勅願寺として、三十三坊を擁する格式ある大寺となりましたが、戦国乱世の中で、坊舎の一つである「平井坊」を除く三十二坊を失ってしまいました。

現在は、江戸時代初めに平井坊の頼意法印の勧請で再建された観音堂と平井坊を残すのみです。

しかしながら境内には、鎌倉後期造立のものでは、九州に他に一例しかないという石造三重塔二基(県文化財指定)の他、大永年間(1521年~27年)造立の六地蔵、宝塔、五輪塔などの石像物が数多く遺っています。

ご本尊千手観音は、14番札所の雲巖寺の本尊などと一木同作といわれる「行基七観音」の内の一体です。
行基菩薩が肥後の国を通られた際、霊木で作られた橋にであい、霊を慰めるためその橋を7つにわけ、海に流されました。
そのうちの1本が流れついたところが竹崎であり、行基菩薩はこの霊木で千手観音像を刻み、この寺の本尊仏としたのが始まりといわれています。

正月2~3日に行われる、別名「裸祭り」ともいわれるこの祭りは、遠く南北朝時代までさかのぼることができる非常に古い形式を色濃く残す祭りの「修正会鬼祭」では幼児の童子舞などが行われ、1979年にはこの祭り全体が国の重要無形文化財にも指定されています。

石造三重塔

佐賀県指定重要文化財の竹崎観世音寺の境内に建つ2基の三重塔。基礎に蓮華文と孔雀文を半肉彫りしたもので、高さ1.7mの優美な石塔で、鎌倉時代の作といわれています。

石造六地蔵塔

竹崎観世音寺参道に建つ地蔵塔で町指定重要文化財です。西の六地蔵は方形柱の竿石の上に蓮弁を刻んだ六角形の中台を載せ、その上に6角柱のがん部があり、その六面に六道巡錫の地蔵尊六体が彫られています。

行基七観音

行基は、九州北部の七ヶ所を訪ね歩き観世音菩薩の木造を七体彫りました。
奈良時代の初め、天皇の命により仏教布教のため諸国を廻っているときに、肥後の国宇土郡で橋の袂で苦しんでいた娘を介抱し、村人から大川に架かる橋が、通行人に祟っていると聞きました。村人の話によると、この橋の材料となった大木は、遠く朝鮮半島の百済から大津波により流され、この地で橋にされたと言います。

行基菩薩は、「橋というものは人を渡して多くの人を助ける慈悲の心がなければならぬのに、人に祟るとはなにごとぞ、仏に代わって汝を七つに切り海中に投じ流れ着いた所を仏縁の地とし観音を刻んで人々を救う霊場としよう」と言って、錫杖で、はっしと打たれると橋げたは七つに割れて海上を流れていったそうです。
行基菩薩は、流れ着いた浦々を廻り、観音を刻んで本尊として霊場を開かれた。その霊場とは下記の通りです。

1)熊本県宇土郡岩戸観音
2)佐賀県藤津郡竹崎観音
3)長崎県南高来郡堂崎観音
4)長崎県北高来郡田結観音
5)長崎県西彼杵郡脇崎観音
6)長崎県佐世保市福石観音
7)長崎県北高来郡和銅寺観音

修正会鬼祭

この地に残る伝説に、竹崎の東端にある夜灯鼻(やとうばな)の沖に住む鬼と、観音堂の箱の中に納められている鬼の2匹の夫婦鬼が、1月5日の晩に互いに呼び合い、再会すると竹崎島が転覆するというものがあります。

修正会鬼祭は、この2匹の鬼が出会うのを阻止するため、褌姿の青年たちが真冬の竹崎観世音寺を舞台に繰り広げる、裸の男達が走り回る精悍な祭りです。
竹崎観世音寺は有明海海上守護仏として信仰を集め、凍てつく夜に白い息をはきながらの裸の若者たちの姿は勇壮そのものです。

祭りの主役は青年組で、独身青年は海に入って身を清め、祭りの期間は青年宿に集い、その間の生活にも細かい規律が定められています。
また、祭りにはそれぞれの役を持った青年や壮年たちの行列や、祭りの前半に行なわれる童子舞(佐賀県重要無形文化財)等があります。

特に青年の中から選ばれた4人の鬼副(おにぞえ)が、鬼面を納めてある鬼箱を持って観音堂から走り出ると、待機していた大勢の裸の青年たちが一斉に喚声をあげて、鬼箱めがけて突進してもみ合い、鬼箱の脱出を阻止しようとします。
この時、鉦、太鼓、法螺貝の音が響き渡って、祭りは最高潮に達します。
激しい攻防の末、鬼箱は観音堂に再び封じ込められ、元の場所に安置されます。

南無大師遍照金剛

竹崎かに」で知られる太良町では、「竹崎カニ」の漁が最盛期を迎える毎年9月下旬から10月上旬の時期に、竹崎観世音寺にて「竹崎かに」に感謝し豊漁と商売繁盛、魚介類の鎮魂のためを願う「かに供養」が旅館組合を中心に行われています。
法要の後、寺近くの竹崎港から漁船が出港し、竹崎沖に大きくなって戻ってくることを願いながら、100~200匹の卵をふ化させたカニが放流されます。

九州西国霊場 第二十三番札所 法川山 和銅寺

次回は九州西国霊場「第二十三番札所 法川山 和銅寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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