九州西国霊場 第二十三番札所 法川山 和銅寺

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九州西国霊場 第二十三番札所 法川山 和銅寺

和銅元年(708年)元明天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝える和銅寺。ご本尊は「行基七観音」の内の一体であり、県文化財に指定されています。

九州西国霊場~より

『概略』

法川山 和銅寺
(御朱印)

創建

和銅元年(708年)行基菩薩

宗派

曹洞宗

ご本尊

十一面観世音菩薩(九州西国霊場ご本尊)

ご真言

おん ろけい じんばら きりく そわか (天台宗系)

十一面観世音菩薩について

苦しんでいる人をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全方向を見守っています。またそれぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)という様々なご利益があり、千手観音菩薩と並んで人気の高い観音である。六観音の1つに数えられ、修羅道に迷う人々を救います
奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになりました。
ちなみに頭上面のうち前3面を菩薩面、左3面を瞋怒面、右3面を狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)、うしろ1面を大笑面といい、頂上に仏面を配して11面です。中には本面とあわせて11面となる場合もあります。また11面の配列が異なる場合もあります。 大笑面は、悪行を大笑いして改心させ、善の道に向かわせるといわれています。

住所・連絡先

長崎県諫早市高来町法川20 TEL 0957-32-2879
(地図)

アクセス

JR長崎本線「湯江駅」下車。徒歩15分
またはタクシーにて3分
長崎自動車道・諫早インター

ご詠歌

ちかいてし のりのかわみず きよければ むすぶてごとに つきぞやどれる

風雨に耐えた1300年の歴史の寺(第二十三番札所 法川山 和銅寺)

国の年号をもって寺号を勅許されたのは全国で七寺のみです。そのことから、この寺の持つ格式の高さと歴史が偲ばれます。
寺は当初天台宗であったが、永禄元年(1558)に曹洞宗に改められた。
ご本尊の十一面観世音菩薩立像は本堂内の厨子に納められ秘仏となっていますが、60年に1度(前回は平成20年)御開帳される秘仏で、行基七観音のひとつとされています。

尊像は、頭部に頂上仏面をはじめ変化面10をつけ、右手は垂下し手のひらを外に向けてわずかに五指を曲げ、左手は蓮華をとって、蓮台に立っているそうす。
あげまき型の天衣は鎌倉時代末期ごろからあらわれるもので、体躯の造型や腰部の衣のひだやしわの表現などと考え合わせて室町時代中期頃の作とされています。
保存状態もよく、引締まった容貌や美しい素木仕上げは、長崎県下の十一面観世音像の代表作の一つといえるでしょう。
像高124.9cmあります。

十一面観世音菩薩の手から一本の紐が伸びていて、紐は本堂を抜けて、外へと伸びていて、参拝者が触れることが出来ます。

本堂内にはその他に、お前立の十一面観音菩薩立像、二天立像や行基菩薩の作と伝わる地蔵菩薩立像阿弥陀如来立像行基菩薩坐像(自作)そして弘法大師像不動明王などが奉安されています。

また、本堂入口の廊下には、唐に渡る前に2年ほど和同寺に滞在した慈覚大師・円仁作といわれる一対の仁王像があります。
長年の風雪にさらされて置いてあり積み重ねてきた月日が感じ取れます。

さらに本堂の裏手には戦国時代に西九州一帯を席捲した龍造寺隆信の墓と伝えられる石塔があるります。
隆信は島原出陣前の一時期、この寺に滞在したといわれています。

天正12年(1584年)島原の有馬晴信を攻めた沖田畷の戦いで、龍造寺隆信は戦死しました。
佐賀龍泰寺の大圭和尚が、沖田畷に駆けつけ、遺体を収容し神代に運び船で湯江に渡ると、ここ和銅寺で荼毘に付しました。
お骨は佐賀に持ち帰りましたが、隆信は生前「自分が死んだら、ここで弔うように」言い残したので、ここにお墓が建てられました。
また「法雲院殿前五州大守泰厳宗龍大居士」と隆信の戒名が記された古い位牌も安置されています。

その後明治2年(1869年)、龍造寺四家の一つである諌早氏の第16代当主の諌早一学が龍造寺隆信の墓碑を建立しました。
建武年間(1334~36)、今川軍の焼討ちにより焼失しましたが、貞治2年(1363年)菊池武光により再建復興されました。
和銅寺は、火災や自然災害などを度々被りましたが、その都度、本尊、仁王像は難をのがれたそうです。

行基七観音

行基は、九州北部の七ヶ所を訪ね歩き観世音菩薩の木造を七体彫りました。
奈良時代の初め、天皇の命により仏教布教のため諸国を廻っているときに、肥後の国宇土郡で橋の袂で苦しんでいた娘を介抱し、村人から大川に架かる橋が、通行人に祟っていると聞きました。村人の話によると、この橋の材料となった大木は、遠く朝鮮半島の百済から大津波により流され、この地で橋にされたと言います。

行基菩薩は、「橋というものは人を渡して多くの人を助ける慈悲の心がなければならぬのに、人に祟るとはなにごとぞ、仏に代わって汝を七つに切り海中に投じ流れ着いた所を仏縁の地とし観音を刻んで人々を救う霊場としよう」と言って、錫杖で、はっしと打たれると橋げたは七つに割れて海上を流れていったそうです。
行基菩薩は、流れ着いた浦々を廻り、観音を刻んで本尊として霊場を開かれた。その霊場とは下記の通りです。

1)熊本県宇土郡岩戸観音
2)佐賀県藤津郡竹崎観音
3)長崎県南高来郡堂崎観音
4)長崎県北高来郡田結観音
5)長崎県西彼杵郡脇崎観音
6)長崎県佐世保市福石観音
7)長崎県北高来郡和銅寺観音

南無釈迦牟尼仏・南無高祖承陽大師道元禅師・南無太祖常済大師瑩山禅師

龍造寺隆信の墓のあたりからは、有明海が一望でき、未だ漁業者と農地の開拓者との間で社会問題となっている諫早湾干拓事業の堤防も眺めることが出来ます。

九州西国霊場 第二十四番札所 田結山 観音寺

次回は九州西国霊場「第二十四番札所 田結山 観音寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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