九州西国霊場 第三十三番札所 清水山 観世音寺

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九州西国霊場結願の寺 第三十三番札所 清水山 観世音寺 九州西国霊場
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九州西国観音霊場結願の寺は、菅原道真公ゆかりの太宰府にある観世音寺です。「日本書紀」によれば、天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために発願され、天平18年(746年)80有余年を費やして完成されたと伝わります。

正面に講堂、東に五重塔、西に東面金堂、手前に中門を備えた伽藍配置は、白鳳期の観世音寺式と称されています。


観世音寺は660年代に設置された大宰府政庁の東に造営され、天平宝字5年(761年)には戒壇院が設けられ、西海道諸国の僧統をつかさどる大宰府の大寺(府大寺)となりました。
その寺域に置かれた戒壇院は、大和東大寺戒壇院などと並び日本三戒壇に一つに数えられています。


また、学問の神様で有名な菅原道真公も「都府楼(大宰府政庁)わずかに瓦の色をみる、観音寺はただ鐘の音をきく」と詠んだ観世音寺の梵鐘は日本最古のもので、国宝に指定されています。

観世音寺宝蔵には、藤原から鎌倉にかけての十六体の仏像が安置され、そのいずれも国指定重文で、西日本随一の文化財が収められています。
諸尊と御縁を結ばさせていただく清祥巡拝の旅は、また、それら諸尊や、御仏たちを奉じ法灯を受け継いできた寺々の歴史を訪ねる旅でもありました。
観世音寺の名鐘の響きは、千有余キロに及ぶ筑紫路の霊地をめぐり来た巡礼者の心しみわたってきたことでしょう。

九州西国霊場~より

『概略』

清水(せいすい)山 普門院 観世音寺
(御朱印)

創建

天平18年(746年) 天智天皇

宗派

天台宗

ご本尊

聖観世音菩薩坐像(九州西国霊場ご本尊)

ご真言

おん あろりきゃ そわか

聖観世音菩薩について

別名、観音菩薩(かんのんぼさつ)とも呼ばれ、人々を常に観ていて救いの声(音)があれば瞬く間に救済する、という意味からこの名が付けられ日本でも多く信仰されました。
六観音の一つに数えられ、地獄道に迷う人々を救うとされています。
苦しんでいる者を救う時に千手観音や十一面観音などの六観音や三十三観音など、様々な姿に身を変えて救いの手を差し伸べます。
それら変化観音と区別するために変化観音に対して、変化しない観音をいい、また一番もとの観音(本来の姿の観音)という意味で、聖観音と呼ばれるようになりました。
単独で祀られることも多いのですが、阿弥陀如来の左脇侍として勢至菩薩と共に三尊で並ぶこともあります。
ちなみに般若心経は観音菩薩の功徳を説いたものです。

住所・連絡先

福岡県太宰府市観世音寺5-6-1 TEL 0956-31-8372092-922-1811
(地図)

アクセス

まほろば号 観世音寺前下車すぐ
西鉄太宰府駅下車徒歩20分
西鉄五条駅下車徒歩10分

ご詠歌

かずかずの よよのほとけの いましめを いまにたえせず みちおしゆなり

九州西国霊場 結願の寺(第三十三番札所 清水山 観世音寺)

観世音寺は7世紀後半、天智天皇の発願で母・斉明天皇の供養のために創建されました。
完成までに約80年かかり、746年に完成の供養が行われました。
また、僧に授戒をする「戒壇院」が設けられたことで観世音寺は、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺と併せて天下(日本)三戒壇と呼ばれ、正式な僧侶として必要な戒律を授かるため、遠方からも多くの出家者が訪れたと言われています。

観世音寺の規模は南大門、中門、五重塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊など七堂伽藍を完備した西日本随一の壮大を誇っていましたが、 平安時代になって再三の火災や台風のために最盛時には、49もの子院を擁したとされるの諸堂は悉く消失または廃墟化してしまいました。
観世音寺の金堂と講堂も焼失し、17世紀に再建されています。
江戸時代になると、筑前に入府した黒田家が観世音寺の再建に取り組みました。
藩主職を息子の長政に譲って隠居となり、時間にゆとりが出来た藩祖黒田孝高(官兵衛)は大宰府に仮居を構えて、観世音寺の再建を指揮したと伝わります。
現在残っている創建当時のものは、京都妙心寺の鐘と共に日本最古といわれる鐘と、諸堂の礎石、天蓋光心、天平石臼、磚せん などがありますが、幸いにして平安期の復興以降に造立された多くの仏像が残っています。
かつて授戒の場とされた戒壇院も遺されていますが、現在は観世音寺とは別の寺院となっています。

さて観世音寺境内にある宝蔵(拝観料 500円)には、九州最大級の仏教彫刻展示をはじめ、数多くの文化財が収められています。
宝蔵に入ると高さ5メートルほどの彫像が立ち並び、9世紀の彫像「兜跋毘沙門天立像」の威厳に満ちた姿に目を奪われます。
観世音寺は大陸由来の舞楽を行う楽団を備えており、寺院で行われた演劇や舞楽に使われた「舞楽面」3面も収蔵されています。

この貴重な遺品はすべて国宝又は重要文化財として指定されています。

筆者も参拝後、宝蔵にてご朱印を押していただいて、2階にある諸像に拝させていただきました。
ご本尊の聖観世音菩薩坐像をはじめ、不空羂索観音立像十一面観音菩薩立像馬頭観音菩薩立像など諸観音のほか毘沙門天立像大黒天立像四天王立像吉祥天立像等々様々な仏様とお会いすることができました。

九州西国霊場結願の寺 第三十三番札所 清水山 観世音寺

無事、納経も済ませ、境内を散策すると国宝の日本最古の銅鐘が鐘楼に吊るされた状態で見ることができました。
総高159cm、口径86cmの鋳銅製で文武天皇2年(698年)に造られた京都妙心寺と同じ鋳型の兄弟鐘です。
竜頭の大きさなどからさらに古いとも考えられています。

現在その梵鐘は、令和2年(2020年)より、九州国立博物館に移され所蔵され、公開されるようになりました。
現在、木造の鐘楼のみが建っています。

この鐘は大宰府に流された菅原道真公が「都府の楼にはわずかに瓦の色を看る。観音寺にはただ鐘の音を聞く」と詠じた鐘だそうです。
今でも、JR博多駅隣りに2016年にオープンした博多マルイ(KITTE博多)の1階と2階で、収録された鐘の音を時報として耳にすることも可能です。

南無根本伝教大師福聚金剛

戒壇院

観世音寺のすぐ西南側に近接して戒壇院が伽藍を構えている。 もともと観世音寺の境内に設置され、所属していたものが、 黒田藩の藩命により博多聖福寺の末寺となっています

僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、これを受ける儀式を経て、僧尼と認められました
戒律は、聖武天皇に招請され来日した唐僧・鑑真によって伝えられました。
鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本へ渡りました。
そして、京に向かう途中、観世音寺を訪れ、753年12月に日本で初めての授戒を行いました
761年、観世音寺に戒壇院(西戒壇)が、西海道(九州)の授戒の場として設けられます。
東大寺(奈良)、下野薬師寺(東戒壇)の戒壇院とともに、「天下の三戒壇」と呼ばれました。

しかしその後、衰退し、1668年に博多の聖福寺・承天寺・崇福寺のもとに禅宗寺院として再出発しました。

本堂

戒壇院の現在の本堂は1680年に再建されたとされる、禅宗様の建物です。

本尊は、奈良の東大寺大仏と同じ、盧舎那仏(国の重要文化財)で、平安時代の制作とみられ、手のひらを外に向けて説法を行う姿をしています。
本尊の両脇には、文殊菩薩像(向かって右)、弥勒菩薩像(向かって左)が立っています(太宰府市指定文化財)。
いずれも江戸時代の制作で、京都の仏師によって制作され、ここで仕上げらたそうです。
同時代に、梵鐘(福岡県指定文化財)、木造鑑真和上像(太宰府市指定文化財)、観世音寺とゆかりのある弘法大師(空海)像なども制作されました。

中央の段が受戒の場となる「戒壇」です。ここに天竺(インド)、唐(中国)、奈良(日本)の土を納めたと伝えられています。

読者の皆様と共に巡った九州西国霊場の遍路も無事「結願」を迎えることが出来ました。

九州二十四地蔵尊霊場 第七番札所 甘木高野山 高野寺

そこで次回は九州二十四地蔵尊霊場に戻り「第七番札所 甘木高野山 高野寺」をお伝えしていきます。
遍路の旅は、まだまだ続きます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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