九州西国霊場 第七番札所 宝籠(ほうろう)山 宝満寺

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九州西国霊場
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九州西国霊場 第七番札所 宝籠山 宝満寺

宝満寺は、眼下に別府の温泉街が広がる別府で一番古い寺です。六郷満山ゆかりの仁聞菩薩の開基で、本尊の十一面千手観世音菩薩立像は聖徳太子の御作と伝えられています。

九州西国霊場~より

『概略』

宝籠(ほうろう)山 宝満寺
(御朱印)

創建

養老2年(718年)年 仁聞菩薩

宗派

天台宗

ご本尊

十一面千手観音菩薩立像(九州西国霊場ご本尊)

ご真言

おん ばざら だるま きりく

十一面千手観音菩薩について

別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によってどんな願いも見落とさず、悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。
蓮華王とは泰三界曼荼羅で観音が配される場所である「蓮華部」の中で、最高位となっています。
阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。

千手観音は、人々を救うための手が多い分、得られるご利益も多いと考えられています。そのため、災難除け、病気平癒などあらゆる現世利益を網羅しているのです。
そのご利益です。
厄災厄除・苦難除去・病魔退散・悪疫守護・諸願成就・平穏無事・頭痛平癒・病気(難病)平癒・奇病快癒

さらに、夫婦円満や恋愛成就、安産や子宝成就にも功徳があるとされていて、後生善処(ごしょうぜんしょと読みます。亡くなったあと来世でも幸せに過ごせることを言います。)などのご利益もあります。

また六観音(聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音または不空羂索観音・如意輪観音)の一つに数えられ餓鬼道に迷う人々を救うといわれています。
餓鬼道に生まれ変わる人は、生前に自己中心的な生活を送っていたり、欲望のままに生きていた人々で、ノドの渇きも潤せず、食べることが叶わないため渇きと餓えに苦しみ続けると言われています。

住所・連絡先

大分県別府市田の口町1組 TEL 0977-23-2653
(地図)

アクセス

JR日豊本線東別府駅から徒歩約10分
JR日豊本線別府駅から徒歩約20分
門前に駐車スペースあり

ご詠歌

みてごとに かずのたからを おさめつつ ひとのねがいも みつるなりけり

別府最古の寺(第七番札所 宝満寺)

別府八湯の一つ「鉄輪温泉」の温泉街を通り抜け、少し高度を上げながら、山道を登ると宝満寺に着きます。
宝満寺は、眼下に別府の温泉街が広がる別府で一番古い寺と門前の看板には記されています。

養老2年(718)、六郷満山ゆかりの仁聞菩薩の開基で、白檀木造りのご本尊の十一面千手観世音菩薩立像は聖徳太子の作と伝えられていますが、秘仏となっていて、33年に一度御開帳されるので、通常はお前立を拝することになります。その観音様は大和の国(現在の奈良県)から、この地にたどり着いたという言い伝えが残っています。

道路に接した石段より見上げると、山門には足場が組まれていました。

気を取り直して、石段を登り始めると右手の石垣には「大乗妙典塔」が埋め込まれています。

大乗妙典塔とは、自分よりもまず人のために幸福になってほしいと願う仏法のことです。
大乗妙典とは私たち衆生しゅじょうを迷いから悟りの世界に導いてくれる経典で、一般的には法華経、すなわち妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を指すといわれています。

石段を登り終え、足場に気を付けながら山門をくぐると、右手に庫裡があり、納経所となっています。

お納経をお願いすると、ご住職から「改修工事の真っ最中で申し訳ない」と告げられ、観音堂(本堂)も外からのお参りになってしまう事も伝えられました。

観音堂へは山門より先を見るとさらに狭い坂道が続いています。
これが「冥界の道」と言われる観音堂への参道の登り口です。

坂道の所々には下から順に「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」「声聞」「縁覚」「菩薩」「」の立て札が設置されていて、最後の石段を登ると、観音堂の境内にたどり着きます。
観音堂からは、日本を代表する一大温泉地・別府の街を一望でき、その眺望はすばらしく、この眺望も、参道を登ってきた者だけが、眺める事ができる光景で、「ご利益」の一つのように感じられました。


お堂の扉に鍵が掛かっていなかったので、少しだけ開けてみると、堂内に安置されている尊像達もすべてビニールシートで覆われていました。
でもそこにはご本尊をはじめ諸尊がおられると思い、お勤めをさせていただきました。

読経を終え、観音堂の裏手には多数の石仏がまるで観音堂を護っているかのように佇んでいました。

さて、宝満寺は鎌倉時代の初めには、西明寺(福岡)、道明寺(佐賀)、五大院(鹿児島)、蓮華寺(熊本)と並んで、宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺の末寺として国東六郷満山との深いつながりを持っていました。

神宮寺とは、神社に付属して建てられた仏教寺院です。
奈良時代、日本固有の神道と、外来である仏教との調和、融合のために唱えられた教説が神仏習合です。神宮寺はその結果生まれました。
多くは神社に付属して建てられ、仏教施設や山内寺院として建設がされました。運営は仏教僧や寺院が行っていました。
社僧と言われる神宮寺に住んで仏事を行う僧侶が、神社の祭祀を仏式で行っていました。

奈良時代には朝廷から山林や水田の寄進を受け、鎌倉時代の隆盛時には大友氏より水田400町歩の寄進を受けて、12の末坊を持ち栄えたと伝わっています。

その後、度々の兵火にあい寺運衰退するも、江戸時代の享保年間(1716~36)に浄蔵法師により再興されます。
当時は「田野口村」の山中にありましたが、一旦、明治初年に廃寺となってしまいました。

時が経ち、大正2年に豪顕和尚により現在地に遷移され、堂宇が建立されて宝満寺と名付けられたという古刹である。

お参りを済ませて再び冥界の道を下ってくると、観音様の石像が「良いお参りでした」と言わんばかりに立っておられました。

南無根本伝教大師福聚金剛

余談ですが、改修工事中で変則のお参りになってしまったためなのか、お納経が済むとご住職も庫裡から出てこられ、冥界の道の入り口で「カメラかスマホをお持ちでしたらお写真を撮りましょうか?」おっしゃられ、記念の写真を撮ってくださいました。
丁度冥界の道の両脇にはツワブキの黄色い花が咲き乱れ、その花たちと一緒に撮ってくださり、良い思い出になりました。

次回は九州西国霊場「第八番札所 飛来山 霊山(りょうぜん)寺」をお伝えしていきます。

九州西国霊場 第八番札所 飛来山 霊山(りょうぜん)寺

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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