九州八十八ヶ所百八霊場第四十七番札所 指宿高野山 光明寺

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九州八十八ヶ所百八霊場第四十七番札所 指宿高野山 光明寺 九州八十八ヶ所百八霊場
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九州八十八ヶ所百八霊場第四十七番札所 指宿高野山 光明寺

薩摩半島の一角、縁に囲まれ全国に知られる温泉の里指宿天然砂蒸しは特に有名であります。この地に光明寺があります。 寺周辺には、そら豆、おくら等畑が多く季節を感じます境内に目を向けますと前面を駐車スペースとして広く取り高齢者の方、身体に障害のある方が安心して御参りができるように設計してあります。又、参拝者の皆様の健康を祈って、観音菩薩蔵を平成18年に建立しました。

堂内に地蔵菩薩を本尊として安置しその側に寺宝で大師ゆかりの密教法具の一つ香炉と如意棒が島津家祖霊の願文とともに奉納してあり年に1回元旦の日にご縁にあう事が出来ます。

九州八十八か所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~より

『概略』

指宿高野山 光明寺
(御朱印)

創建

昭和21年(1946年)川上妙貞尼

宗派

高野山真言宗

別称

加治木の高野山

ご本尊

地蔵菩薩坐像
(お御影)

ご真言

おん か か か び さんま えい そわか

地蔵菩薩について

大きな慈悲の心で人々を包み込んで救うといわれています。弥勒菩薩が56億7000万年後に現世に出現するまではこの世には仏がいない状態とされているため、その間命あるものすべてを救済する菩薩です。閻魔大王の化身であるともいわれ、この世で一度でも地蔵菩薩に手を合わせると身代わりとなって地獄の苦しみから救うとされ人々から信仰を集めました。
また他の仏とは違い人道など六道を直に巡って救済を行うとされ、親しみを込めて「お地蔵さま」の名で呼ばれています。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などによく6体の地蔵が祀られています。
仏教では六道輪廻と呼ばれ、六道のいずれかに転生しているご先祖様や故人を導いてもらうために、それぞれ1体ずつが各世界を担当して見守ってくださっています。
また日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになったそうです。

お姿は出家僧の姿が多く、六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされました。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もおられます。そのため小僧姿も多いです。

ちなみに六道とは、人道・天道・地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道からなる世界で成り立っています。

天道

天道は天人が住まう世界。天人は空を飛ぶことができ、享楽のうちに生涯を過ごすが、死を迎える時は5つの変化と苦しみが現れ、これを五衰(天人五衰)と称し、体が汚れて悪臭を放ち、脇の下から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の髪飾りが萎み、楽しみが味わえなくなるそうです。

人間道

人間道は人間が住む世界で四苦八苦に悩まされます。
『往生要集』の徳川家康の旗頭にも書かれている「厭離穢土(おんりえど)」では「苦しみの相」・「不浄の相」・「無常の相」と、三つの相があると記されています。

修羅道

修羅道は阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界だそうです。

畜生道

畜生道は鳥・獣・虫など畜生の世界。
種類は約34億種で、苦しみを受けて死ぬそうです。

餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界で腹が膨れた姿の鬼になると言われています。
餓鬼は36種類に分類されていると言われ、旧暦7月15日の施餓鬼は餓鬼を救うために行われます。

地獄道

地獄道は罪を償わせるための世界で、地下の世界で、『往生要集』などにも「上下に八層重なっている」と記述されています。
賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めました。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われています。

西院河原地蔵和讃

これは この世の 事ならず  死出の 山路の すそ野なる
西院の河原の ものがたり  聞くに つけても 哀れなり
二つや 三つや 四つ 五つ  十にも 足らぬ みどり児が
西院の河原に 集まりて  父 恋し 母 恋し
恋し恋しと 泣く声は  この世の声とは 事変わり
悲しさ 骨身を とおすなり  かのみどり児の 所作として
河原の石を 取り集め  これにて 回向の 塔を組み
一重組んでは 父のため  
二重組んでは 母のため
三重組んでは ふるさとの  兄弟 我が身と 回向して
昼は 独りで遊べども  日も 入りあいの その頃に
地獄の 鬼が 現れて  やれ 汝らは 何をする
娑婆に 残りし 父母は  追善 作善の つとめなく
ただ 明暮れの 嘆きには  むごや 可愛いや 不憫やと
親の 嘆きは 汝らが  苦げに 受くる 種となる
我を 恨むる 事なかれ  くろがねの 棒をのべ
積みたる 塔を 押し崩す  又 積め積めと 責めければ
おさな子 余りの 悲しさに  まこと 優しき 手を合わせ
許し たまえと 伏し拝む  罪(つーみー)なく思うかや
母の 乳房が いでざれば  泣く泣く 胸を 打つ時は
八万地獄に ひびくなり  母は 終日 疲れにて
父が 抱かんと する時は  母を 離れず 泣く声は
天地 奈落に ひびくなり  言いつつ 鬼は 消え失せる
峰の 嵐の 音すれば  父かと 思うて はせ登り
谷の 流れと 聞く時は  母かと思うて 馳せ下り
あたりを 見れども 母も無く  誰とて 添え乳 なすべきや
西や 東に かけめぐり  石や 木の根に つまづいて
手足は 血潮に 染めながら  おさな心の あじきなや
砂を 敷きつつ 石枕  泣く泣く寝入る 折りからに
又 清冷の 風吹けば  皆 一同に 起き上がり
ここや かしこと 泣き歩く  その時 能化の 地蔵尊
ゆるぎ 出でさせ 給いつつ  何をか 嘆く おさな子よ
なんじら 命 短くて  めいどの 旅に 来るなり
汝が 父母 娑婆に有り  娑婆と 冥土は 程遠し
われを 冥土の 父母と  思うて 明け暮れ 頼めよと
幼き者を 御衣の も裾の 内に 掻き入れて
哀れみ給うぞ ありがたき  いまだ歩まぬ 幼子を
鉛杖の 柄に 取り付かせ  忍辱 慈悲の みはだに
いだきかかえて なでさすり  大悲の 乳房を 与えつつ
泣く泣く 寝入る 哀れさは  たとえ がたなき 御涙
袈裟や 衣に したしつつ  助け給うぞ ありがたや
わが子を ふびんと 思うなら  地蔵菩薩を 念ずべし
南無や 大悲の 地蔵尊
南無や 大悲の 地蔵尊

住所・連絡先

鹿児島県指宿市西方5159 TEL 0993-25-2612
(地図)

アクセス

JR指宿枕崎線宮ヶ浜駅から徒歩20分。
国道226号線に寺標があり右折、さらに寺標を左折する。
境内に駐車場あり。

ご詠歌

ありがたや 地蔵菩薩の 慈悲の海 常世を照らす 法の光明

開聞岳に抱かれて(第四十七番 光明寺)

薩摩富士とも呼ばれる開聞岳(標高922m)の北麓に綿津見(わたつみ・わだつみ)三神をお祀りする薩摩一之宮の「枚聞(ひらきき)神社」が鎮座しています。
その綿津見三神とは伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいます。
この枚聞神社の別当を坊津一乗院の末寺だった普門寺で、さらにその末寺が光明寺でした。
光明寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となっていましたが、昭和21年に川上妙貞尼が霊示を受け、復興されました。
この時に地蔵菩薩をご本尊として安置されたそうです。

その後、昭和26年のこと、当時、東京在住だった島津久光公の曾孫にあたる島津忠彦氏の夢枕に三日三晩にわたり尼僧が立ち
当家に伝わる弘法大師所縁の品を奉納するように
と告げられたそうです。

島津忠彦氏は、その夢枕に立った尼僧を探すと、指宿光明寺の妙貞尼がその人でした。

こうして、密教法具の一つである金色の鳳凰をかたどった香炉と如意棒が島津家累代の願文と共に奉納されました。
現在でも寺宝として大切に保管されているそうです。

さて、前置きが長くなりましたが、光明寺は別府に次ぐ九州第二の温泉郷である指宿(いぶすき)温泉や「イッシー」でも有名になった池田湖にも程近く、高原のような田園風景が広がる風光明媚なところに建っています。

境内は前面に駐車スペースがゆったりとってあり、自販機も設置してある屋根付きの休憩スペースもあり、地域に開かれたくつろいだ雰囲気のあるお寺です。

九州八十八ヶ所百八霊場第四十七番札所 指宿高野山 光明寺

正面には入母屋造の本堂があり、私の参拝した日には法要が営まれていて、本堂に上がることは出来ませんでしたが、堂内にはご本尊の地蔵菩薩のほか、大日如来不動明王弘法大師などの尊像が安置されている他、金剛界胎蔵界曼荼羅も奉安されているそうです。
また「癪取吸障」という水晶の玉もあり、その玉に素手で触れると癪(病の種)を吸い取ってくれると伝わっています。

また境内には修行大師の像とともに六地蔵も祀られている他、猫の塚などもありました。

南無大師遍照金剛

光明寺のある指宿は篤姫出生の地として有名です。

九州八十八ヶ所百八霊場第四十八番札所 音泉山 薩摩 薬師寺

次回は九州八十八ヶ所百八霊場第四十八番札所「音泉山 薩摩 薬師寺」をお伝えします。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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