九州八十八ヶ所百八霊場 第十一番札所 金比羅山 明観(みょうかん)寺

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九州八十八ヶ所百八霊場
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明観寺は開山以来、寺号より鍼灸の杏林堂の方がとおりがよいようです。今でも腰痛・神経痛の特効があるとして多くの患者さんが訪れています。
本尊は高王白衣観音という珍しい尊像です。
高王とは、魏の国の王でこの白衣観音を信仰して民や国が栄えたと伝わります。
人が困難に陥ったとき帰依すれば不思議とご利益をいただき救われる言われ、「救苦救難」の観音として信仰されています。
また明観寺では弘法大師が入唐求法された真言宗の故里である中国西安青龍寺遺跡から出土した瓦などの遺品を住職訪中の折、譲り受けられています。
現代では中国政府によって出土品の海外流出は厳しく制限されていますので、日本にあること自体極めて稀な宝と言えるでしょう。
また、明観寺は篠栗霊場・神代の滝不動院も兼務されておられるそうです。

九州八十八か所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~より

『概略』

金比羅山明観寺
(御朱印)

別称

はり灸の明観寺・鍼灸院香林堂

創建

大正14年(1952年)高野山嘉穂支部建立
昭和五年(1930年)熊本県山鹿の明観寺の寺号を移す

宗派

真言宗御室派

ご本尊

高王白衣(びゃくえ)観音座像(九州八十八ヶ所百八霊場ご本尊)
(お御影)

ご真言

おん しべいてい しべいてい はんだら ばしに そわか

高王白衣観音について

阿弥陀如来の妻であり、観音菩薩の母といわれています。

サンスクリット語名の「パーンダラヴァーシニー」の「白い衣をまとう」という意味から白衣観音と名付けられました。
なお、白衣(びゃくえ)とは、僧が着る袈裟や法衣(糞掃衣)ではなく、在家の着る白い衣のことです。

インドで生まれた変化観音に対して、中国や日本でのみ信仰されてきた観音菩薩に三十三観音があります。
三十三に姿を変えて人々を救う菩薩とされている観音様の「三十三」という数字にあわせて江戸時代にまとめられました。
白衣観音はその観音さまの一種類です。
息災除病、子受け、安産のご利益があると言われています。

ちなみ「高王」とは魏の国王だそうで、ご利益に関して以下のような逸話があります。
『むかし元魏の定州(現在の河北省)に孫敬徳という人がいました。
彼は在郷軍人などが召集に応じて軍務につく応召兵で、北方の警護に就いている時に観音菩薩像を作り礼拝する信心者でした。
しかし無実の罪で捕まってしまいます。
斬首の刑が執行されることが決まる中、孫敬徳は獄中で観音菩薩に深く祈りを捧げているうちに眠ってしまいました。
彼は一人の僧が『高王観音経』を千度唱えればこの窮地から救われる、と告げられる夢を見ました。
孫は夢で見たことを実行しましたが、次の日、刑場に立たされ、あわや、という瞬間にちょうど千度目の読謡を終えました。
すると首を断とうとした刀は三つに折れてしまい、彼は死を免れることができました。
その後、孫を赦免したのが高王です。』

住所・連絡先

福岡県飯塚市西町2-51 TEL 0942-75-5294
(地図)

アクセス

西鉄飯塚バスセンタ-より徒歩10分

バスセンタ-より文化センターを目標に進み、杏林堂の案内を左折する

境内に駐車場あり

ご詠歌

慈悲の目に 憎しと思う 者はなし とがある者は あらわれまします

針灸も慈悲の心

針灸も慈悲の心

飯塚市の文化センターの裏手の小高い住宅地の中に明観寺はありました。道中、寺標がなく、地図をみながら探しますが、「杏林堂」の看板のみ。

それもそのはずで開山以来、針灸治療所の杏林(きょうりん)堂として知られて明観寺という寺号より、「杏林堂」の方が通りがよいようです。
庫裡と棟続きに診療室があります。

左手に施術所、その右手に境内があります。施術所と庫裡は棟続きとなっていました。
境内は、こじんまりとはしていますが、緑多く、本堂前は石庭となっていて手入れが行き届いていて、気持ちが清々しくなります。

ご住職は、施術中なのかご不在なのかはわかりませんでしたが、呼びかけても応答がなく、縁側からガラス越しにご本尊の高王白衣観音様を拝ませていただきます。
ご本尊の尊像は、岩座の上に蓮台を乗せ、その上に坐しておられます。ご容姿は中国風でした。

そして珍しいことに脇侍にご尊名は不明ですが、赤い腹巻をつけた二人の童子の立像を従える三尊像の形式を採られていることでした。

さらに明観寺で注目すべきは、中国西安の青龍寺遺跡の発掘現場から出土した遺品が伝来していて寺内に展示されています。

青龍寺は空海が入唐の折、密教第七祖の恵果阿闍梨より正統な密教を受け継いだお寺で、現在では「四国八十八か所0番札所」となっています。

青龍寺は永く廃絶となっていたためその所在も不明でしたが、1963年に青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺付近の発掘調査により多数の唐代の遺物を発掘され、この地が、いにしえの青龍寺であったことが確かめられました。

その後、この地に日中協力によって空海記念堂が建立され、1984年には東塔院が再建されました。

時に昭和53年(1978年)、先代住職の坂本法観師(現在は名誉住職)が中国針の研修のため訪中した際、余暇を利用して青龍寺発掘現場に赴き、出土品の一部を譲り受けました。その一部の瓦を明観寺本堂に奉埋されたそうです。

私は拝見できておりませんが、その他の青龍寺遺跡の出土品(大半が素焼きの破片)は本堂内に展示してあり、日本でも稀有の有難い品です。

さて、御朱印はご不在のため直接いただくことはできませんでしたが、「ご自由におつかいください」と書かれて縁側に置かれていた納経印を押させていただくことにしました。

南無大師遍照金剛

青龍寺よりの伝来品は見る者によっては「ただの素焼きの破片じゃないか」と言われる方もあるかとはおもいますが、弘法大師・空海が大志をいだき入唐した若き日々を追体験できると思うと、次回参拝の折には是非とも拝見したいものと強く思わずにはいられません。

また境内にある石仏群は篠栗の2009年大雨洪水で流されてしまった神代之滝不動院の仏像等で、当地から引き取ったものだそうです。
どちらのお寺に参拝しても境内には石仏群がありますが、このような経緯をお聞きすると、何故かその仏様たちと会話が出来るような気がするので不思議です。

次回は第十二番札所「穂波山 金倉寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生(しゅうじょう)と
みなともに仏道(ぶつどう)を成(じょう)ぜんことを 合掌

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