九州二十四地蔵尊霊場 第八番札所 常住金剛山 浄心院

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九州二十四地蔵尊霊場第八番札所 常住金剛山 浄心院 九州二十四地蔵尊霊場
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九州二十四地蔵尊霊場第八番札所 常住金剛山 浄心院

浄心院は、現在では希少な神仏混合神仏不二を受け継ぎぐお寺で、浄心法尼が当地において不動明王を感得し、その霊験により創建したと伝わっています。さらに、九州八十八所百八霊場第九十番札所でもあります。

九州二十四地蔵尊霊場会~より

『概略』

常住金剛山 浄心院
(御朱印)

創建

開基年不詳 開山 浄心法尼

宗派

真言宗 大覚寺派

ご本尊

不動明王立像(寺ご本尊) 身代り不動
平塚苦ぬき地蔵尊(霊場ご本尊)

ご真言

おん か か か び さんま えい そわか

地蔵菩薩について

大きな慈悲の心で人々を包み込んで救うといわれています。弥勒菩薩が56億7000万年後に現世に出現するまではこの世には仏がいない状態とされているため、その間命あるものすべてを救済する菩薩です。閻魔大王の化身であるともいわれ、この世で一度でも地蔵菩薩に手を合わせると身代わりとなって地獄の苦しみから救うとされ人々から信仰を集めました。
また他の仏とは違い人道など六道を直に巡って救済を行うとされ、親しみを込めて「お地蔵さま」の名で呼ばれています。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などによく6体の地蔵が祀られています。
仏教では六道輪廻と呼ばれ、六道のいずれかに転生しているご先祖様や故人を導いてもらうために、それぞれ1体ずつが各世界を担当して見守ってくださっています。
また日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになったそうです。

お姿は出家僧の姿が多く、六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされました。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もおられます。そのため小僧姿も多いです。

ちなみに六道とは、人道・天道・地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道からなる世界で成り立っています。

天道

天道は天人が住まう世界。天人は空を飛ぶことができ、享楽のうちに生涯を過ごすが、死を迎える時は5つの変化と苦しみが現れ、これを五衰(天人五衰)と称し、体が汚れて悪臭を放ち、脇の下から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の髪飾りが萎み、楽しみが味わえなくなるそうです。

人間道は人間が住む世界で四苦八苦に悩まされます。
『往生要集』の徳川家康の旗頭にも書かれている「厭離穢土(おんりえど)」では「苦しみの相」・「不浄の相」・「無常の相」と、三つの相があると記されています。

修羅道

修羅道は阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界だそうです。

畜生道

畜生道は鳥・獣・虫など畜生の世界。
種類は約34億種で、苦しみを受けて死ぬそうです。

餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界で腹が膨れた姿の鬼になると言われています。
餓鬼は36種類に分類されていると言われ、旧暦7月15日の施餓鬼は餓鬼を救うために行われます。

地獄道

地獄道は罪を償わせるための世界で、地下の世界で、『往生要集』などにも「上下に八層重なっている」と記述されています。
賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めました。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われています。

西院河原地蔵和讃

これは この世の 事ならず  死出の 山路の すそ野なる
西院の河原の ものがたり  聞くに つけても 哀れなり
二つや 三つや 四つ 五つ  十にも 足らぬ みどり児が
西院の河原に 集まりて  父 恋し 母 恋し
恋し恋しと 泣く声は  この世の声とは 事変わり
悲しさ 骨身を とおすなり  かのみどり児の 所作として
河原の石を 取り集め  これにて 回向の 塔を組み
一重組んでは 父のため  
二重組んでは 母のため
三重組んでは ふるさとの  兄弟 我が身と 回向して
昼は 独りで遊べども  日も 入りあいの その頃に
地獄の 鬼が 現れて  やれ 汝らは 何をする
娑婆に 残りし 父母は  追善 作善の つとめなく
ただ 明暮れの 嘆きには  むごや 可愛いや 不憫やと
親の 嘆きは 汝らが  苦げに 受くる 種となる
我を 恨むる 事なかれ  くろがねの 棒をのべ
積みたる 塔を 押し崩す  又 積め積めと 責めければ
おさな子 余りの 悲しさに  まこと 優しき 手を合わせ
許し たまえと 伏し拝む  罪(つーみー)なく思うかや
母の 乳房が いでざれば  泣く泣く 胸を 打つ時は
八万地獄に ひびくなり  母は 終日 疲れにて
父が 抱かんと する時は  母を 離れず 泣く声は
天地 奈落に ひびくなり  言いつつ 鬼は 消え失せる
峰の 嵐の 音すれば  父かと 思うて はせ登り
谷の 流れと 聞く時は  母かと思うて 馳せ下り
あたりを 見れども 母も無く  誰とて 添え乳 なすべきや
西や 東に かけめぐり  石や 木の根に つまづいて
手足は 血潮に 染めながら  おさな心の あじきなや
砂を 敷きつつ 石枕  泣く泣く寝入る 折りからに
又 清冷の 風吹けば  皆 一同に 起き上がり
ここや かしこと 泣き歩く  その時 能化の 地蔵尊
ゆるぎ 出でさせ 給いつつ  何をか 嘆く おさな子よ
なんじら 命 短くて  めいどの 旅に 来るなり
汝が 父母 娑婆に有り  娑婆と 冥土は 程遠し
われを 冥土の 父母と  思うて 明け暮れ 頼めよと
幼き者を 御衣の も裾の 内に 掻き入れて
哀れみ給うぞ ありがたき  いまだ歩まぬ 幼子を
鉛杖の 柄に 取り付かせ  忍辱 慈悲の みはだに
いだきかかえて なでさすり  大悲の 乳房を 与えつつ
泣く泣く 寝入る 哀れさは  たとえ がたなき 御涙
袈裟や 衣に したしつつ  助け給うぞ ありがたや
わが子を ふびんと 思うなら  地蔵菩薩を 念ずべし
南無や 大悲の 地蔵尊
南無や 大悲の 地蔵尊

住所・連絡先

福岡県朝倉市平塚780 TEL 0946-22-7702
(地図)

アクセス

西鉄甘木線・甘木鉄道線 甘木駅より車で10分
高速甘木インターより車で5分
境内に駐車可

ご詠歌

金剛の 変わらぬ力 不動尊 神仏不二の 浄心の寺

霊場ご詠歌 金山の 地蔵は苦ぬき 大菩薩 遍く照らす 輪廻の誓い

加持祈祷の根本道場・神仏混合の寺(第八番札所 常住金剛山 浄心院)

広大に広がったたんぼの風景の中、まるで浮島のように点在する集落の一つの中に「浄心院」があります。
鳥居があって一見神社のような佇まいをしてはいますが、れっきとしたお寺です。
堂も入母屋造ではありますが、横に長く民家風で、境内の不動尊や六地蔵などの石仏が無ければ、お寺だと気づかないかもしれません。
浄心院は開山の浄心法尼が、当地において不動尊を感得しその霊験により創建されました。
現在では希少な「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)神仏不二の精神を受け継ぎ、神・仏ともに祭祀する寺で、内陣中央には身代わり不動・大日如来・釈迦如来・十一面観音などを安置しています。

霊場ご本尊のお地蔵様は向かって左側の別室にお祀りされていて、苦ぬき地蔵尊として知られ、人々の悩み、苦しみを聞いてくださるありがたい菩薩様です。
特に病人の苦しみ、亡児の苦しみや安産育成など、あらゆる悩みを聞き届け救ってくださいます。

また、稲荷大明神は弘法大師空海も信仰した神であり、これも浄心法尼が神託によって本堂内に勧請し、内陣右手にお祀りしています。
商売繁昌・所願成就の神様で、二月の初午に初午大祭が行われています。
なお、お稲荷様は筑後十社稲荷の一社です。

さて、平塚の地は、弘法大師空海が筑紫巡鍚をされた折の大根川伝説ゆかりの地です。その伝説とは、
平安時代に弘法大師が全国行脚で古賀の筵内に立ち寄った折、空腹になったので橋の上から水面を眺めていたら、川で大根を洗っている老婆と遭いました。
「その大根を分けてくださらんか」と尋ねたところ、老婆は空海が偉い僧侶と知らず、またみすぼらしい格好だったので、老婆に断られ、川の水を掛けられてしまいました。それでも再び頼むと老婆は顔を真っ赤にして、なんと石まで投げつけられ、その石が空海の顔に当たって血が流れました。
空海は静かに「人面如夜叉」と唱え、錫杖で3度地面についたところ、川の水の流れを止め、干上がらせてしまいました。
空海は見た目だけで相手を判断して応対する態度への戒めのために川の水を干上がらせたのでした。
それからの毎年大根を洗う季節になると筵内では老婆の戒めのために水が表面を流れなくなるという逸話です。
この逸話から、この川を「大根川」という名前がついたと言われています。

南無大師遍照金剛

ここ平塚は「黒田騒動」でも有名な栗山大膳(利章 としあきら)にもゆかりのある地です。

世に知られている「黒田騒動」は、元和9年(1623年)黒田長政没後から始まります。

長政は、幼いときから人質生活で何度も死線を乗り越え戦国時代を勝ち抜いた武将でしたが、長政の嫡子・忠之は、幼いころからわがままで短気で問題を起こしていました。
贅沢を好み遊興を重ねるわが子に長政は不安を抱き、幾度も廃嫡を考えたようです。
この長政の「忠之廃嫡」の動きに、忠之の守役であった栗山大膳が防波堤となって、ことごとく守っていたそうです。

しかし、新藩主になった忠之のわがままは治まらず、家臣をむやみに打ち叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴におぼれ、剛健・質素の家風は忘れられていきます。
大膳をはじめ藩の重臣たちが忠之に何度諫言してもとりあってもらえず、藩政は険悪な状況になっていきました。

その上、忠之は、幕府が最も嫌う軍船を建造し幕府のとがめを受けますが、大膳などの謝罪で事なきを得ました。
しかしながら、忠之の乱行は治まりません。

忠之は、領主になる前から小姓として仕えていた倉八十太夫を重用し、重臣のだれにも相談なしに十太夫を家老にし、十太夫の権威は藩随一になります。
忠之のわがままは益々ひどくなり、藩の乱れは承知しながらも藩の重臣たちも口をつぐみ、諫言をなすのは大膳のみとなりましたが、諫言してもしりぞけられ続けました。

さらに忠之は、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけます。
この時代、大名が城郭を補強・修理したり士卒を雇い入れたりすることは禁止されていて、幕府による藩取り潰しの口実にされかねない出来事です。

大膳は、若輩の十太夫に頭をさげ、諫言書を藩主忠之に届けるよう依頼しますが、十太夫はこれを握りつぶし、大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけます。
こうして忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまいます。忠之は大膳の殺害を口にしますが、大膳は職を退いて杷木志波の邸に帰り、藩をつぶすことなくこの急場を乗り切る方法を考えていました。

寛永9年(1632年)、大膳は九州大名の総目付け日田代官・竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。
これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。

思惑どおり寛永10年(1633年)、大膳は裁きの庭で老中を前に「御老中の御威光による御意見をいただく以外には、主・忠之をして神君・家康公の御厚志を守り通さす方法見当たらず公訴の手段をとりました。家康公の御意思をふみにじってはなりません」と釘をさしています。
大膳の命をかけた訴えによって、次のような幕府の評定が出されました。
「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領はそのまま与える。」
「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。150人扶持を生涯与える。」

こうして黒田藩はとりつぶしを免れ、その後忠之は島原の乱や長崎警護の任で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。
大膳は、盛岡で罪人あつかいされることなく、62歳で生涯を終えました。お墓は岩手県盛岡市にあります。

次回は、順不同となりますが九州二十四地蔵尊霊場第三番札所「全海山 宗像観音寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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