九州二十四地蔵尊霊場 第五番札所 松霊山 十輪院

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九州二十四地蔵尊霊場 第五番札所 松霊山 十輪院 九州二十四地蔵尊霊場
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享保二年(西暦1717年)に江戸に大火災の時に小倉藩の江戸藩邸への類焼を防いだ僧の逸話が残る十輪院。以来、地元の人から火難守護の鎮火地蔵尊として信仰されています。

九州二十四地蔵尊霊場会~より

『概略』

松霊山 十輪院
(御朱印)

別称

伊能忠敬ゆかりの寺

創建

享保2年(1717年)小倉藩主・小笠原忠雄

宗派

高野山 真言宗

ご本尊

鎮火地蔵尊(寺ご本尊・霊場ご本尊)

ご真言

おん か か か び さんま えい そわか

地蔵菩薩について

大きな慈悲の心で人々を包み込んで救うといわれています。弥勒菩薩が56億7000万年後に現世に出現するまではこの世には仏がいない状態とされているため、その間命あるものすべてを救済する菩薩です。閻魔大王の化身であるともいわれ、この世で一度でも地蔵菩薩に手を合わせると身代わりとなって地獄の苦しみから救うとされ人々から信仰を集めました。
また他の仏とは違い人道など六道を直に巡って救済を行うとされ、親しみを込めて「お地蔵さま」の名で呼ばれています。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などによく6体の地蔵が祀られています。
仏教では六道輪廻と呼ばれ、六道のいずれかに転生しているご先祖様や故人を導いてもらうために、それぞれ1体ずつが各世界を担当して見守ってくださっています。
また日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになったそうです。

お姿は出家僧の姿が多く、六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされました。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もおられます。そのため小僧姿も多いです。

ちなみに六道とは、人道・天道・地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道からなる世界で成り立っています。

天道

天道は天人が住まう世界。天人は空を飛ぶことができ、享楽のうちに生涯を過ごすが、死を迎える時は5つの変化と苦しみが現れ、これを五衰(天人五衰)と称し、体が汚れて悪臭を放ち、脇の下から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の髪飾りが萎み、楽しみが味わえなくなるそうです。

人間道

人間道は人間が住む世界で四苦八苦に悩まされます。
『往生要集』の徳川家康の旗頭にも書かれている「厭離穢土(おんりえど)」では「苦しみの相」・「不浄の相」・「無常の相」と、三つの相があると記されています。

修羅道

修羅道は阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界だそうです。

畜生道

畜生道は鳥・獣・虫など畜生の世界。
種類は約34億種で、苦しみを受けて死ぬそうです。

餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界で腹が膨れた姿の鬼になると言われています。
餓鬼は36種類に分類されていると言われ、旧暦7月15日の施餓鬼は餓鬼を救うために行われます

地獄道

地獄道は罪を償わせるための世界で、地下の世界で、『往生要集』などにも「上下に八層重なっている」と記述されています。
賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めました。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われています。

西院河原地蔵和讃

これは この世の 事ならず  死出の 山路の すそ野なる
西院の河原の ものがたり  聞くに つけても 哀れなり
二つや 三つや 四つ 五つ  十にも 足らぬ みどり児が
西院の河原に 集まりて  父 恋し 母 恋し
恋し恋しと 泣く声は  この世の声とは 事変わり
悲しさ 骨身を とおすなり  かのみどり児の 所作として
河原の石を 取り集め  これにて 回向の 塔を組み
一重組んでは 父のため  
二重組んでは 母のため
三重組んでは ふるさとの  兄弟 我が身と 回向して
昼は 独りで遊べども  日も 入りあいの その頃に
地獄の 鬼が 現れて  やれ 汝らは 何をする
娑婆に 残りし 父母は  追善 作善の つとめなく
ただ 明暮れの 嘆きには  むごや 可愛いや 不憫やと
親の 嘆きは 汝らが  苦げに 受くる 種となる
我を 恨むる 事なかれ  くろがねの 棒をのべ
積みたる 塔を 押し崩す  又 積め積めと 責めければ
おさな子 余りの 悲しさに  まこと 優しき 手を合わせ
許し たまえと 伏し拝む  罪(つーみー)なく思うかや
母の 乳房が いでざれば  泣く泣く 胸を 打つ時は
八万地獄に ひびくなり  母は 終日 疲れにて
父が 抱かんと する時は  母を 離れず 泣く声は
天地 奈落に ひびくなり  言いつつ 鬼は 消え失せる
峰の 嵐の 音すれば  父かと 思うて はせ登り
谷の 流れと 聞く時は  母かと思うて 馳せ下り
あたりを 見れども 母も無く  誰とて 添え乳 なすべきや
西や 東に かけめぐり  石や 木の根に つまづいて
手足は 血潮に 染めながら  おさな心の あじきなや
砂を 敷きつつ 石枕  泣く泣く寝入る 折りからに
又 清冷の 風吹けば  皆 一同に 起き上がり
ここや かしこと 泣き歩く  その時 能化の 地蔵尊
ゆるぎ 出でさせ 給いつつ  何をか 嘆く おさな子よ
なんじら 命 短くて  めいどの 旅に 来るなり
汝が 父母 娑婆に有り  娑婆と 冥土は 程遠し
われを 冥土の 父母と  思うて 明け暮れ 頼めよと
幼き者を 御衣の も裾の 内に 掻き入れて
哀れみ給うぞ ありがたき  いまだ歩まぬ 幼子を
鉛杖の 柄に 取り付かせ  忍辱 慈悲の みはだに
いだきかかえて なでさすり  大悲の 乳房を 与えつつ
泣く泣く 寝入る 哀れさは  たとえ がたなき 御涙
袈裟や 衣に したしつつ  助け給うぞ ありがたや
わが子を ふびんと 思うなら  地蔵菩薩を 念ずべし
南無や 大悲の 地蔵尊
南無や 大悲の 地蔵尊

住所・連絡先

福岡県田川郡大任(おうとう)町大字今任原(いまとうばる)2590 TEL 0947-63-2048
(地図)

アクセス

JR日田彦山線 伊田駅下車、大任町コミュニティーバス「下今任(十輪院前)」下車 徒歩3分
境内裏手に駐車場有

ご詠歌

火鎮めの 地蔵菩薩と 讃えらる 十輪院の 永久の輝き

火難守護のお地蔵様(第五番札所 松霊山 十輪院)

境内裏手にある整備された広々とした駐車場に車をとめ、回り込むように十輪院の正面山門に向かいました。

山門をくぐると正面に重厚感のある本堂があります。

こちらにご本尊の「鎮火地蔵尊」が祀られています。
その霊験談とは
「享保の江戸の大火の時、小倉藩邸にも火が迫ってきました。
その時一人の僧が表れて類焼をくい止めてくれました。
そこで名を尋ねると『私は領内の豊前今任の地蔵である』と告げて姿を消しました。
後日、藩主・小笠原忠雄公は使いを出し、その所在を調べさせたところ、松の木の下に地蔵堂がありました。
お堂の中には足元が黒くこげているお地蔵さまがおられました。
『まさしくこのお方が藩邸を護ってくださったのだ』と確信した藩主は、お礼にお堂を新築されたそうです。」
というものです。

松霊山の山号もこの松になぞらえたものと思われます。

この鎮火地蔵尊のお札を台所に貼っておくと火事にならないといわれ、檀信徒の皆さんに大変喜ばれているそうです。

境内には田川四国の一番札所となっているお堂や

不動明王をはじめ、たくさんの仏様を奉安されている護摩堂や地蔵堂などがあります。

さらに本堂内の一対の木彫の昇り降りの龍神様を撫でてお参りすると願い事が叶うと言われています。

南無大師遍照金剛

境内には、伝承に繋がる老松(二代目宝蓋松)があり、時期には藤の花が咲き乱れ、日本の地図を作り上げた人として有名な伊能忠敬も立ち寄って一休みしたとの記録もあり、訪れる人々が足を休めるのにうってつけの場所として広く知られるようになりました。
その通り、裏手の川からか、さわやかな風が吹きわたり、とても清浄な空気に包まれているようなお寺でした。

九州二十四地蔵尊霊場 第六番札所 日光山 西福寺

次回は、九州二十四地蔵尊霊場第六番札所「日光山 西福寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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