タイトル:九州八十八ヶ所百八霊場 第二十六番札所 摩尼(まに)山 福寿院

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九州八十八ヶ所百八霊場
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豊後府内藩が成立したのは文禄3年(1594年)将軍徳川家綱の命を受け松平忠昭が万治元年(1658年)6代目府内城主として転封したため、松平家の祈願所であった福寿院も城内三の丸に移されました。
府内藩築城工事については「人柱伝説」があります。
九州八十八か所百八霊場~九州を周る「心巡り」の旅~より

『概略』

摩尼(まに)山 福寿院
(御朱印)

創建

明暦年間(1655~1658) 宥雄上人 開山
明治3年より現在地

宗派

高野山真言宗

ご本尊

不動明王立像(九州八十八ヶ所百八霊場ご本尊)
(お御影)

ご真言

のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろ しやだ そわたや うんたらた かんまん

不動明王について

不動明王は、密教の教主、大日如来が衆生教化のため変身した明王の中では最高位の仏様です。
普段は柔和な大日如来が、優しさだけでは通用しない人々を救済するために、あえて怒りの形相をしています。
邪悪な相手には徹底的に厳しく、人が間違った道へ進もうとした時には、正しい道へと戻れるように諭してくれる存在です。
迷いの世界から煩悩を絶ちきり、仏の道を教えてくれる尊い存在なのです。

空海が日本にもたらした最初のお姿は両目を見開く恐ろしい形相で、おさげ髪のお姿でした。その後19世紀になると、「不動十九観」が定められ左目をやや閉じ、右目を開ける天地眼、上唇を下歯で噛み下唇を上歯で噛むといった特徴となりました。
そして倶利伽羅剣という宝剣と悪い心を縛り上げることにより、善き心を呼び起こさせるための羂索と呼ばれる網をもっておられます。
さらに背後には炎が立ち上げる火焔光背があります。

住所・連絡先

大分県大分市荷場町10-31 TEL 097-534-0773
(地図)

アクセス

・JR大分駅にて下車、北口より中央通りを北進、中央警察署前の信号を右折約1.2Km
・JR大分駅より大分交通バス別府行、荷揚町下車、徒歩5分
・車の場合、国道10号線西生石交差点から左手の道に入り、新川交差点を右折、検察庁と中央警察署の間を左へ
・門内に駐車場あり

ご詠歌

福聞けば 寿なりと 人ぞいう 院(つど)い祈れよ 南無不動尊

人柱伝説とともに(第二十六番 福寿院)

野生の猿で有名な高崎山を過ぎ、別府湾沿いの海風も心地よい国道10号線を大分市内に向け南下し、市民の憩いの場となっている大分城址公園の北側に福寿院はあります。
お寺の周辺は、県都のため官庁街です。

そのため若干交通量は多いものの道路に面して福寿院の境内はあります。
市街地のお寺らしく境内はコンパクトにまとまっていて、山門を入り正面に入母屋造に唐破風の向拝のつく本堂があります。

ご本尊の不動尊は鎌倉時代末期の作とされ、丹波篠山から伝えられらたそうです。
他にも、弘法大師、阿弥陀如来、そして護摩壇には藩主の念持仏だった秘仏の不動尊が奉安されています。

堂内にお祭りしてある本尊の不動尊は鎌倉時代末期の作で丹波国篠山から伝えられたそうです。

このお寺には、お宮さんという娘の人柱の話が伝わっています。

石田三成の娘婿の福原直高が府内城(白雉城)を築くとき、そこが大分川の河口にあったため天守閣の定礎を固めるたびに水が出て工事が中断しました。
そこで人柱を立てることとなり、選ばれたのが上野六坊に住んでいたお宮という18歳の娘でした。
お宮は母娘の二人暮らしでたいそう貧しく、人柱になれば母親には毎年50石の扶持が与えられるというので人柱になる決心をしたそうです。
その後三日間の施餓鬼の末、お城の守護神である弁財天を抱え入水しました。
後は水も出ることなく造営は順調に進んだとのことです。

南無大師遍照金剛

お宮の御霊は弁財天とともに府内城の鎮守として祀られ、毎年3月18日から20日には、お城の天守閣下のお宮の墓前と、ここ福寿院で追善供養が修められています。

次回は第二十七番札所「有智(うち)山 蓮城寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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