九州西国霊場 第十四番札所 岩殿山 雲巌(うんがん)寺

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九州西国霊場
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九州西国霊場 第十四番札所 岩殿山 雲巌寺

岩戸観音の通称で親しまれている雲巖寺は、九州西国霊場のなかで唯一馬頭観音を本尊にお祀りしていますが、行基菩薩自ら敬刻の「行基七観音」と称される中の一体とされる馬頭観音を安置したのにはじまると伝えられています。

九州西国霊場~より

『概略』

岩殿山 雲巌(うんがん)寺
(御朱印)

別称

岩戸観音

創建

開基 行基菩薩

再興・建立 観応2年(1351年)東陵永璵(中国の僧)

宗派

曹洞宗

ご本尊

四面馬頭観世音菩薩像(九州西国霊場ご本尊)(秘仏)

ご真言

おん あみりと どはんば うんはった そわか
おん あみりとどはば うん はった (天台宗系)

馬頭観世音菩薩について

ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話を起源とされています。
動物達の守護仏でもあります。

他の観音様は女性的な美しい表情であることが多いですが、馬頭観音は憤怒の形相で表され、馬頭明王と呼ばれることもあります。
怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くし災難を取り除くとされています。

六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済します。また家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様として信仰されました。昔は武家や農民にとって、馬は生活の一部となっており、馬を供養する仏としても信仰されました。レース中の事故で亡くなった馬を供養するために、競馬場の近くにもよく祀られています。

住所・連絡先

熊本県熊本市西区松尾町平山589 TEL 096-329-8854
(地図)

アクセス

JR熊本駅から徒歩2分の熊本駅前電停から熊本市電健軍町行きで10分、辛島町電停下車。
徒歩3分の桜町バスターミナルから九州産交バス芳野経由玉名・河内行きに乗り換え30分。岩戸観音入口下車、徒歩20分
九州道熊本インターから1時間。または九州道菊水インターから50分
駐車場有り

ご詠歌

わしのみやま そのはるあきは ほどふれど みのりのはなは なおにおいけり

阿蘇山麓の古刹 十四番札所・雲厳寺

行基自ら敬刻の馬頭観音を安置したことに始まると伝えられ、 その後、南北朝の頃、中国寧波より来朝した帰化僧・東陵永與(とうりょうえいよ)により再興、建立された。
東陵の倚像は重要文化財に指定されています。
ご本尊の四面馬頭観音像は行基菩薩の作と伝えられております。境内には渕田屋儀平が24年間の歳月をかけて奉納したいふ五百羅漢を始め十六羅漢等が安置され、寺の裏手には金峰山がそびえ、門前にはのどかな田園風景が広がっている。
周辺は、大分県の耶馬渓になぞらえて肥後耶馬溪と呼ばれています。奇岩と紅葉の美しい場所です。
寺の前には一対の仁王像が立ち、石段を登れば、すぐ左手にイチョウの大木がある。 その先が本堂である。 本堂に向って左手に霊厳洞の入口がある。入口の脇には宝物殿がある。

霊厳洞の入口で拝観料(300円)を納める。 入場門を入るとすぐ左手に宝物殿がある。
建物内には巌流島で武蔵が使用したと伝わる木刀・五輪之書(写本)などが展示されている。

霊厳洞への参道口には観音堂があります。

さらに入口に近い順に延命地蔵尊・閻魔堂。

そして、参道を通して右側の崖には多数の羅漢像(五百羅漢)が見られます。
石碑によれば、熊本の商人、淵田屋儀平の願により安寧8年(1779年)から享和2年(1802年)まで24年間かかって奉納されたと言われています。
羅漢とは釈迦の教えを聞いて悟りを開いた俗体の弟子達のことで、五百羅漢の一つ一つの姿を注意して見ると必ず自分の身内にそっくりの顔を見いだすことができるとの言い伝えがあります。

霊厳洞に祀られている仏像は4面の石造馬頭観音菩薩で秘仏となっています。
この観音菩薩像は「むかし、いずれの年にや、異国より渡れり」、その渡海の時に船頭が船の操作を誤り、船は沈没しましたが、観音像は舟板に乗って沈む事がなく、この洞窟の方に流れ着いたとされています。

洞窟内の大きな石は「船頭石」といわれ、操作を誤った船頭が、観音菩薩の前にその過ちを悔い、遂に石になったものと伝わっています。

行基七観音

行基は、九州北部の七ヶ所を訪ね歩き観世音菩薩の木造を七体彫りました。
奈良時代の初め、天皇の命により仏教布教のため諸国を廻っているときに、肥後の国宇土郡で橋の袂で苦しんでいた娘を介抱し、村人から大川に架かる橋が、通行人に祟っていると聞きました。村人の話によると、この橋の材料となった大木は、遠く朝鮮半島の百済から大津波により流され、この地で橋にされたと言います。

行基菩薩は、「橋というものは人を渡して多くの人を助ける慈悲の心がなければならぬのに、人に祟るとはなにごとぞ、仏に代わって汝を七つに切り海中に投じ流れ着いた所を仏縁の地とし観音を刻んで人々を救う霊場としよう」と言って、錫杖で、はっしと打たれると橋げたは七つに割れて海上を流れていったそうです。
行基菩薩は、流れ着いた浦々を廻り、観音を刻んで本尊として霊場を開かれた。その霊場とは下記の通りです。

1)熊本県宇土郡岩戸観音
2)佐賀県藤津郡竹崎観音
3)長崎県南高来郡堂崎観音
4)長崎県北高来郡田結観音
5)長崎県西彼杵郡脇崎観音
6)長崎県佐世保市福石観音
7)長崎県北高来郡和銅寺観音

南無釈迦牟尼仏南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師

宮本武蔵は天正12年3月(1584年)岡山県英田郡大原町宮本に於いて、父、新免無二斉、母お正の次男として生まれた。武蔵は13歳の時、藩州平福で新刀流、有馬喜兵衛との戦いに打ち勝って以後、諸国を巡って剣の道一筋に錬磨し、その間、京都一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め、29歳で九州船島(巌流島)に於いて佐々木小次郎と決闘し、60余度の勝負に一度も負けることはありませんでした。

霊厳洞は雲巌禅寺の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音(いわとかんのん)の名で知られる観音像が安置されています。
剣豪・宮本武蔵は、熊本藩主・細川忠利に細川藩軍事顧問として招かれ、肥後千葉城に居住し忠利候の命をうけ「兵法35箇条」を献上しました。
寛永20年(1643年)から2年間この洞窟内に参籠し坐禅したとされ、有名な二天一流の極意書・兵法書『五輪書』はここでまとめられたといわれています。
武蔵の波乱に満ちた生涯を静かにふりかえり、剣の道をまとめあげるには、絶好の場所だったことでしょう。

九州西国霊場 第十五番札所 宇今(うこん)山 普光寺

次回は九州西国霊場「第十五番札所 宇今(うこん)山 普光寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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