九州西国霊場 第十三番札所 阿蘇山 西巌殿寺

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九州四十九院薬師霊場
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神亀3年(726)、インドより来朝された最栄が、聖武天皇の勅願により自ら十一面観音を刻み、これを本尊として開基されたと伝えています。
西巌殿寺はもともと単独の寺院の呼び名ではなく、最栄が最初に建立した寺院を本堂として、僧侶の坊舎が37、坊舎に付属する庵がつくられ、これらの総称が西巌殿寺です。

九州西国霊場~より

『概略』

阿蘇山 西巌殿(さいがんでん)寺
(御朱印)

創建

縁起1 神亀3年(726年)最栄読師(インドから来朝)
縁起2 天養元年(1144年)最栄読師(比叡山)

宗派

天台宗

ご本尊

十一面観世音菩薩立像(九州西国霊場ご本尊)
(お御影)

ご真言

おん ろけい じんばら きりく そわか

十一面観世音菩薩について

苦しんでいる人をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全方向を見守っています。またそれぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)という様々なご利益があり、千手観音菩薩と並んで人気の高い観音である。六観音の1つに数えられ、修羅道に迷う人々を救います。
奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになりました。
ちなみに頭上面のうち前3面を菩薩面、左3面を瞋怒面、右3面を狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)、うしろ1面を大笑面といい、頂上に仏面を配して11面です。中には本面とあわせて11面となる場合もあります。また11面の配列が異なる場合もあります。 大笑面は、悪行を大笑いして改心させ、善の道に向かわせるといわれています。

住所・連絡先

熊本県阿蘇市黒川1114 TEL 0967-34-0928
(地図)

アクセス

JR豊肥本線阿蘇駅下車、徒歩10分
国道57号線、阿蘇駅前の交差点を南に600m
境内に駐車可

ご詠歌

わかくさの つみにかわりて もえいずる けむりぞかみの すがたなりけり

他の霊場札所

九州四十九院薬師霊場 第三十番札所

ご詠歌 若草の 罪にかわりて 燃え出づる 煙ぞ神の 姿なりけり(西国霊場と同じ)
ご真言 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
(御朱印)

阿蘇山麓の古刹 十三番札所・西巌殿寺

天竺から来朝していた毘舎離国王の太子の最栄は、阿蘇山にやって来で噴火口めざして山を登り、火口から中を覗き込んでみると、そこには目を覆うような地獄の世界が広がっていなした。
鬼に責められ、またはお互いを殴り合いその肉を食らいつく亡者たち…。その光景に読師はとても心を痛め、悲しい気持ちで山を下りようとした時、地中が振動して、目の前に九つの頭を持つ大きな龍が天空をついて現れました。
その龍は阿蘇神社の祭神健磐龍命たけいわたつのみこと)の変化した姿でした。

その龍の「火口の中を見てみなさい」という言に従い、もう一度恐る恐る火口を覗くと、亡者たちをかばい鬼に打たれ、争う亡者たちの仲裁に入る慈愛に満ちた十一面観世音菩薩の姿を見ました。
尊いその姿に心打たれた最栄は、登山途中見つけた霊木に一刀三礼し心を込めて十一面観世音菩薩彫り、火口の西の洞窟(巌殿)に安置して本尊として祀り、毎日法華経を読んで修行に励みました。燃え出る火口の底に人間の愚かしい地獄絵図を感得し、一心不乱に読経を続けたことから「最栄読師」と称ばれました。

その火口を健磐龍命として祀る阿蘇神社と、それを十一面観音(健磐龍命・たけいわたつのみことの本地仏)を本尊とする西巖殿寺が一体となって、阿蘇山の信仰が発展しました。
平安時代後期には、上宮(噴火口)と中宮(山上本堂)、それに山上本殿に仕える衆徒(天台宗)・行者(真言宗)が常住する山上坊(古坊中・ふるぼうちゅう)が整備され、山上一帯につくられたその古坊中は三十六坊五十二庵を数えたといわれ、英彦山、宇佐、国東と並ぶ九州山岳仏教の一大聖地となっていきました。

本尊十一面観音ほか諸仏はいずれも県の文化財に指定されており、また庫裏の右手にある、小堀遠州作の心宇の庭園でも知られています。

天正年間(1573年~1592年)、豊後の大友氏と薩摩の島津氏の確執が激しくなり、阿蘇神社の大宮司であり阿蘇地方を治める戦国武将でもあった阿蘇氏は、大友氏の支配下に入っていたことから島津軍の攻撃に遭い、西巌殿寺のある古坊中も阿蘇氏の庇護下にあったことから、山上の寺院群をすべて焼き払われました。

その後、豊臣秀吉の天下統一により肥後の国には加藤清正が入りました。
天正年間の戦火を免れた長善坊は清正に三十六坊五十二庵の再興を願い出て許しを受け、慶長5年(1600年)、清正は各地に散在していた僧侶たちを呼び集め麓の黒川村に「三十六坊五十二庵」を再興しました。
山上にも本堂・諸堂舎が建てられ、この時から黒川村の坊舎を「麓坊中」、山上を「古坊中」と呼ぶようになりました。

明治4年(1878年)、廃仏毀釈による寺領返還によりほとんどが廃寺となってしまい、唯一、旧学頭坊を西巌殿寺として存続することができました。
さらに明治22年(1889年)には、阿蘇山上に奥の院が建立されました。

平成13年(2001年)不審火により麓の本堂が全焼。
その後現在では、旧本堂より一段下手(北側)の建物が本堂となっています。

境内は広大な敷地面積で、南側の参道口より100mを超える一直線の緩やかな上り坂の参道を進むと、正門です。


正門をくぐってすぐ左手に現本堂域、そのまままっすぐ進めば、火災で焼けた旧本堂域に登る長い石段があります。

現本堂域にある仏堂

正門前の右手には浄光院(浄教)跡があります。
御堂の前の駒札に「天正15年(1587年)山上落去の後、加藤清正が、阿蘇内牧城代加藤右馬允に命じて、麓黒川村に阿蘇一山を取立て扶持・居屋敷を与えたとある。」と記されています。 敷地内には「園通庵(聖観音・子安観音・生目八幡)」と記された扁額がある仏堂が建っていますが、扉は施錠されています。

山門は新本堂域の東側、旧本堂域の東側にもあり、車で参拝するには新本堂域の東側の山門が便利です。
車に乗ったまま山門をくぐり、本堂前の駐車スペースまで行けます。

旧本堂域へのは正門をくぐって、そのまま真っすぐ進み、長い石段を登って行きます。
火災で焼けたと言われる旧本堂の礎石をみれば、かなり大きな建物であったことが想像できます。

今は男鬼・女鬼・役小角・足手荒神が祀られた仏堂が建物として残すのみですが、敷地周辺には多くの石仏が並んでいます。

阿蘇市指定天然記念物の公孫樹 (いちょう)大イチョウは、幅の広い石段を上った先に建つ門の横。

南無根本伝教大師福聚金剛

観光名所でもある阿蘇山の事実上の廃止となったロープウェイの代行バスの「火口シャトル」の発着場所の山上ターミナルのそばには西巌殿寺の奥の院、山上本堂があります。
地震により損壊された以前の建物は撤去され、 現在は多くの方の浄財で再建されたお堂が建っています。
境内には馬頭観音が祀られた観音堂が残り、境内周辺には巨大な馬頭観音像・阿弥陀如来像があります。

阿蘇山は古来より縁結びの山として信仰を集めており、昔から若い男女が春と秋の彼岸に阿蘇山の火口へ詣でていました。
これは「オンダケサンマイリ」と言われ、この行事に参加して夫婦の契りを交わしたと言われています。
そのため阿蘇山上に位置する阿蘇山本堂西巖殿寺奥之院は、結婚・良縁成就等のご利益があらたかと言われています。

また奥の院敷地の後には、阿蘇山上神社が鎮座しています。
ちなみに本文でも書きましたが、ご祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)です。

九州西国霊場 第十四番札所 岩殿山 雲巌寺

次回は九州西国霊場「第十四番札所 岩殿山 雲巌(うんがん)寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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