九州西国霊場 第三十二番札所 冷泉山 龍宮寺

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九州西国霊場
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九州西国霊場 第三十二番札所 冷泉山 龍宮寺

龍宮寺の開創年代は詳らかではありませんが、本尊の聖観音は慈覚大師・円仁の作と伝わり、太閤秀吉が博多の町割りをした頃より「博多七観音」の一つとして、広く人々の信仰を集めていたといわれています。寺名の通り「人魚」にまつわる伝説があるお寺です。

九州西国霊場~より

『概略』

冷泉(れいせん)山 龍宮寺
(御朱印)

創建

開創年代不詳 谷阿上人

宗派

浄土宗 鎮西派

別称

袖湊観音

ご本尊

聖観世音菩薩立像(九州西国霊場ご本尊)

ご真言

おん あろりきゃ そわか

聖観世音菩薩について

別名、観音菩薩(かんのんぼさつ)とも呼ばれ、人々を常に観ていて救いの声(音)があれば瞬く間に救済する、という意味からこの名が付けられ日本でも多く信仰されました。
六観音の一つに数えられ、地獄道に迷う人々を救うとされています。
苦しんでいる者を救う時に千手観音や十一面観音などの六観音や三十三観音など、様々な姿に身を変えて救いの手を差し伸べます。
それら変化観音と区別するために変化観音に対して、変化しない観音をいい、また一番もとの観音(本来の姿の観音)という意味で、聖観音と呼ばれるようになりました。
単独で祀られることも多いのですが、阿弥陀如来の左脇侍として勢至菩薩と共に三尊で並ぶこともあります。
ちなみに般若心経は観音菩薩の功徳を説いたものです。

住所・連絡先

福岡県福岡市博多区冷泉町4-21 TEL 092-291-1003
(地図)

アクセス

JR博多駅から徒歩10分
福岡市営地下鉄・祇園駅から徒歩2分
西鉄バス 祇園町から徒歩2分
西鉄バス 奥の堂から徒歩2分
シティループバス「ぐりーん」櫛田神社・博多町家ふるさと館前から徒歩5分
駐車場なし

ご詠歌

わたつみの みたまささぐる おとめごが あかすものりの こえやきくらん

人魚伝説が伝わる寺(第三十二番札所 冷泉山 龍宮寺)

九州最大のターミナル駅、博多駅より大博通りを十数分歩くとビルとビルの谷間に龍宮寺はあります。通りを挟んで向かい側には東長寺がどっしりとした伽藍を構えています。

龍宮寺の開創年代は詳らかではありませんが、開山は谷阿上人といわれています。
本尊の聖観音は慈覚大師・円仁の作と伝わり、太閤秀吉が博多の町割りをした頃より「博多七観音」の一つとして、広く人々の信仰を集めていたといわれています。
伝えるところでは、この寺ははじめ袖湊の浜辺にあったといわれ、寺内まで潮が入ったので浮御堂(うきみどう)と称していました。

中興開山は慶長5年(1600)、姫路より入寺した本誉上人によるといわれ、上人により現在地に堂宇が移建された。

境内には行基菩薩作と伝える「三宝大荒神のお堂」もあり、ここには信州善光寺の一光三尊如来も奉安されています。
昔は龍宮寺の両隣は本願院(廃寺)、天福寺(昭和58年(1983)城南区南片江に移転)という寺院でしたが、今はなく、元々は本願院に所属した荒神堂だけが龍宮寺の境内に残っています

三宝荒神とは、仏・法・僧の三宝を守護する神様です。

その名のとおり、荒々しい火の神様で火を司る霊力があるといわれています。
また人々の生活に必要な水・土・火を三宝と呼ぶこともあります。
水 は生活の根本となるもの、土は食物を生育させるもの、そして火は調理するものです。

三宝荒神は不浄なものが大嫌いで、火を好む性格を持っているので、現在ではかまどの神様や台所の神様として信仰されています。

九州西国霊場 第三十二番札所 冷泉山 龍宮寺

観音堂

本堂のほぼ正面に鎮座しています。
太閤秀吉の博多町割り(1587年)より博多七観音大乗寺観音妙楽寺観音龍宮寺観音聖福寺観音東長寺観音観音寺観音乳峯寺観音)の一つとして昔から多くの人の巡礼の場となっています。
ちなみに博多七観音は下記の7ヶ寺となっています。

法皇山 宝珠院 大乗寺 千手観世音菩薩  福岡市博多区上川端町6
臨江山 妙音寺 成就院 聖観世音菩薩   福岡市南区高宮1-21-7
大悲山 観音寺     聖観世音菩薩   福岡市博多区奈良屋町10-22
安国山 聖福寺     千手観世音菩薩  福岡市博多区御供所町6-15
華厳山 乳峰寺     十一面観世音菩薩 福岡市博多区御供所町14-4
冷泉山 慈眼院 龍宮寺 聖観世音菩薩   福岡市博多区冷泉町4-21
南岳山 東長寺     千手観世音菩薩  福岡市博多区御供所町2-4

堂内には霊場ご本尊の「聖観世音菩薩」は平成17年の福岡西方沖地震で被害を受けたそうです。

さてお寺の名前が龍宮城ならぬ「龍宮寺」となっていますが、寺名の通り「人魚」にまつわる伝説があるお寺です。
境内には人魚塚もあり、その伝説を偲ばせてくれます。

その伝説とは、鎌倉時代はじめの貞応元年(1222年)、漁師の網に人魚がかかり、守護職は幕府へ知らせ、報告を受けた朝廷は、都から勅使として冷泉中納言(れいぜいちゅうなごん)を検分のため派遣しました。
冷泉中納言は、しばらく浮御堂に滞在されました。
その間に占いの博士安部大富(あべのおおとみ)に占わせると「国家長久の瑞兆(ずいちょう)」というので、人々は大喜び、この人魚を浮御堂の地に手厚く葬り、「人魚は龍宮の使い」ということで、寺の名を龍宮寺、また勅使冷泉中納言にちなんで冷泉山と名付け、このあたりの海を冷泉の津というようになりました。
また、寺の所在地である冷泉町は、この冷泉山から取られています。

現在は通常一般に公開はされていませんが、ここには今も人魚の骨と江戸時代に描かれた人魚の掛け軸が保存されています。
明治の頃まで、縁日にはこの人魚の骨をタライに入れて水を張り、不老長寿、無病息災に霊験ある水として参拝者に飲ませていたそうです。

乳房から上が人間、それより下半身は魚で体長は約150m弱だった」と伝わっています。そして人魚の骨と伝わるものが6片保存されているそうです。
現代の調査の結果、大型哺乳類の骨であることがわかっておて、沖縄地方以南に生息しているジュゴンの骨であるという説が有力だそうです。

また、人魚塚は、何のご利益かはわかりませんが、お参りの人が削って持ち帰る為、磨り減り、昭和33年に新しいものと置き換えられたそうです。

南無阿弥陀仏

文明12年(1480年)、応仁の乱で荒廃した京都を逃れ、当時博多を支配していた守護大名大内氏に招かれて筑紫に下った連歌(れんが)師・飯尾宗祇(そうぎ)は、九州寺を巡遊する際に龍宮時を宿とし連歌百韻を興行しました。世にこの連歌が「博多百韻」と言われています。「博多百韻」の原書は残っていませんが、古写本が北九州市立図書館に収蔵されています。
この道中を記した「筑紫道記」は優れた紀行文として、応仁の乱後の博多を語る貴重な史料です。

飯尾宗祇は、恵まれない環境に育ち、早くから僧となって修行する一方、連歌を宗砌(そうぜい)や心敬(しんけい)に学び、全国を旅して連歌を広めながら指導に努め、連歌の最も盛んな時代を築きました。
深みのある上品でおだやかな作風で、松尾芭蕉にも深い影響をあたえたそうです。

九州西国霊場結願の寺 第三十三番札所 清水山 観世音寺

次回はいよいよ九州西国霊場結願の寺「第三十三番札所 清水山 観世音寺」をお伝えしていきます。

願ねがわくは
この功徳くどくをもってあまねく一切いっさいに及およぼし
われらと衆生しゅうじょうと
みなともに仏道ぶつどうを成じょうぜんことを 合掌

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