
今日3月1日はビキニ・デーです。
1954年(昭和29年)のこの日、太平洋にあるマーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカ軍が水爆実験を行い、付近を航行していたマグロ漁船「第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)」(静岡県焼津市)の乗組員23人全員が被曝しました。
政府調査によれば同時に被曝した船が1423隻ありました。
その事実から、公益財団法人 第五福竜丸平和協会では、「第五福竜丸事件」ではなく「ビキニ事件」という呼称を使っています。

実験当時、第五福竜丸はアメリカが設定した危険水域の外で操業していました。
危険を察知して海域からの脱出を図りましたが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物(いわゆる「死の灰」)の降灰を受け続けました。
船体や人体を十分洗浄もしないまま、強い放射能汚染のある状態で帰港までの2週間船上で生活をしていました。
放射線による火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛などの症状を呈し、「急性放射線症」と診断されました。

その後、約半年後の9月23日、無線長だった久保山愛吉氏が被爆の影響もあり亡くなられました。
この死が国内外に衝撃を与え、日本において原水爆禁止などの反核運動が始まる動機にもなりました。
危険水域の外であったにもかかわらず、被爆の被害が発生した原因は、当初アメリカ軍が水素爆弾の威力を実際よりも弱く見積もり、危険区域を狭く設定したことにあります。

第五福竜丸は現在、東京都江東区の夢の島公園にある東京都立第五福竜丸展示館に展示されている。この日には反核の集会などが行われています。
第五福竜丸について

1947年、和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)でカツオ漁船の第七事代丸(だいななことしろまる)として進水しました。そして、1953年に静岡県焼津市でマグロ漁船に改造され、第五福竜丸に改称しました。
帰還の後、人家から離れた場所へ係留するよう指示により、鉄条網が張られた状態での係留を経て、文部省(現・文部科学省)が第五福竜丸を買い上げ、8月に東京水産大学(現・東京海洋大学)品川岸壁に移されまし。この後、さらに検査と除染が行われたあとに、三重県伊勢市大湊町の強力造船所(現・株式会社ゴーリキ) において改造され、東京水産大学の練習船の「はやぶさ丸」となりました。
第五福竜丸の船体はのちの1967年、老朽化により廃船となり、使用可能な部品が抜き取られて東京都江東区夢の島に係留されている姿が東京都職員らによって再発見され、保存運動が起きました。
この時点で所有者は転々として水面占有許可も切れ、他の廃船とともに第15号埋立地に埋め立てられる予定となっていましたが、1968年に都議会予算委員会などで取り上げられるなど保存に向けた動きが次第に活発となりました。

現在は1976年開館の東京都立第五福竜丸展示館(夢の島公園)に永久展示されています。
心臓部であるエンジン部分は、廃船時に船体から切り離されて貨物船「第三千代川丸」に搭載されていましたが、この貨物船は1968年に航海途上の三重県熊野灘沖で座礁、沈没しましたが、その28年後の1996年、民間有志(『第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ』和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、2000年より展示館前の広場に展示されています。

事件は広島・長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」と見做され、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方の兵器による原子力災害(被爆と被曝)を経験した国となりました。
ちなみに、第五福竜丸が浴びた放射性物質とその被害は、1954年の映画「ゴジラ」が制作される動機にもなりました。
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