2月4日 銀閣寺(ぎんかくじ)の日

今日は何の日

今日2月4日は銀閣寺(ぎんかくじ)の日です。
この日に室町幕府の第8代将軍・足利義政が銀閣寺を建て始めたことに由来します。
ちなみに2月4日は、現在の暦での日付で、当時の暦では1月7日となるそうです。

ここまで銀閣寺と書いてきましたが、正式には慈照寺(じしょうじ)といいます。
しかも、もともとは当時の将軍である足利義政(あしかがよしまさ)の山荘東山殿ひがしやまでん)」として建築が始められました。
世間から逃れ静かに暮らすための別荘であり、お寺ではありませんでした。

のちに足利義政が亡くなり、供養のために別荘がお寺へと変更されました。それが慈照寺です。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺です。
寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされましたが、翌年「慈照寺」に改められました。
慈照寺にお祀りされている慈照寺観音殿(じしょうじかんのんでん)の通称が「銀閣」であるため、お寺の全体を銀閣寺と呼ぶようになり、そのまま定着していったとされています。

文明5年(1473年)、室町幕府の第8代将軍・足利義政は子の足利義尚に将軍職を譲り、文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。
この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところで、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っています。
義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つだった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていましたが、応仁の乱後に変更されました。
元々は祖父で第3代将軍足利義満が北山殿(後の鹿苑寺)を造営して将軍職を譲った子の足利義持を後見したように、義政も養子となっていた弟の足利義視を後見する場として山荘造営を計画したもので、応仁の乱を経て後継者が実子の義尚と確定した後もその考え方は変わっていなかったとみられています。

当初は金閣寺にならって銀閣寺も銀箔をはる予定でしたが、予算が足りなくなったので諦めた、という少しばかり残念な説も有名です。
鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られていず、貼られていた痕跡もなく、上層は当初から内外とも黒漆塗でした
これには色々な説があり、「銀箔を貼らなかったのは予算がなくなったから」というより、「はじめから銀箔を貼るつもりがなかった」という説もあります。
いずれにしても建築の途中で足利義政が亡くなっているので、真相はわかっていません。

慈照寺観音殿の建築形式、間取り等については、木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建っています。
長享3年(1489年)の上棟です。
屋根は宝形造、杮葺で、屋頂に銅製鳳凰を置いています。
ただ、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていたようです。

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