
今日2月3日は大岡越前の日です。
1717年(享保2年)のこの日(旧暦)、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が江戸町奉行(南町奉行)に就任しました。

「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で有名ですが、19年間の在任中の裁判は3回だけで、そのうち忠相が執り行ったのは1727年(享保12年)の「白子屋お熊事件」の1回だけという事実はあまり知られていません。前述ようなイメージが定着したのは、彼の公正さや民衆に寄り添う姿勢を象徴するエピソードとして語られることが多いことからのようです。

そのエピソードとして、以下のような逸話が残っています。
1816年(文化13年)成立の『世事見聞録』によれば、ある時、徳川吉宗が忠相に「その方は何人くらい殺したか」と問われた。忠相は「二人殺しました」と答えました。
吉宗は笑って「二人とは百分の一か、それとも千分の一か(本当は二百人、いや二千人だろう)」。
忠相は「死刑にふさわしい罪を犯して処刑された者は、私が殺したのではありません。私が殺したと申し上げた二人のうち、一人は私の僉議(取り調べ)が厳しすぎたために、犯してもいない罪を自白して処刑された者で、もう一人は死刑になるほどの罪ではなかったのに、判決が下る前に牢死(牢内で病死)した者です」と答えた。
忠相は「私は厳しく取り調べて自白させましたが、その者の様子がどこか気になり、じっくりと時間をかけて調べていくうちに真犯人が判明しました。しかし、自白した者は、すでに死刑に処されていました」と答え、冤罪で無実の人間を死に至らしめたことを後々まで悔やんでいたと伝わっています。
大岡忠相の実像は、裁判官としてだけでなく、町の安全と公共の利益を守るために尽力したことに大きな功績があります。
八代将軍・徳川吉宗の信頼が厚く、「享保の改革」と呼ばれる幕政改革を町奉行として支えました。
江戸の市中行政に携わったほか、裁判を行う機関である評定所の中心となる構成員「評定所一座」に加わり、関東周辺の農政を担当する「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」や「寺社奉行」を務めた。
忠相の行政における実務能力と政治的判断力は、改革を成功に導くために不可欠でした。
町奉行としての彼の業務は、江戸の市中行政に大きな影響を与え、後の行政システムにも影響を及ぼしました。
その功績は、現在においても行政の公正さや効率性の追求に繋がっていると言えるでしょう。

冤罪問題がクローズアップされている昨今では、彼の裁判スタイルは、現代の司法の原点とも言えるものであり、公正な裁判を求める現代社会においても重要な価値を持ち続けています。
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