
今日1月26日は帝銀事件の日です。
1948年(昭和23年)のこの日、東京・豊島の帝国銀行椎名町支店で行員など12人を毒殺して現金などを奪った「帝銀事件」が起こりました。
同年に容疑者が逮捕され、後に死刑が確定したが、未だに多くの謎が解明されていません。
帝国銀行とは、後の三井銀行、現在の三井住友銀行です。
事件は、敗戦から間もないGHQ支配下の時代に起こりました。
この日、東京都の衛生課員と名乗る男が、「近くで赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらいたい」と偽り行員など16人に青酸化合物を飲ませて12人を殺害し、現金16万円と小切手を奪って逃走しました。
当初は青酸化合物の扱いに熟知した旧陸軍細菌部隊関係者を中心に捜査されていたが、その年の8月に画家・平沢貞通を北海道小樽で逮捕し、1955年(昭和30年)5月に死刑が確定しました。

しかし、審理に不審な点が多く、冤罪であるとしてその後何度も再審請求が出されました。
平沢貞通は刑を執行されないまま1987年(昭和62年)に獄中で95歳で病死しましたが、現在でも支援者が名誉回復のための再審請求を続けています。
この事件をもとに、横溝正史の「悪魔が来たりて笛を吹く」や、松本清張の「小説帝銀事件」など多くの小説が書かれました。
悪魔が来たりて笛を吹く

元子爵・椿英輔の死体が信州・霧ヶ峰で発見されました。
彼は宝石店「天銀堂」で起きた毒殺事件の容疑者として警察の事情聴取を受けていました。
アリバイが成立し釈放されたのだが、数日前に突然失踪していました。
英輔の死に納得いかない娘・美禰子は金田一耕助に捜査を依頼します。
金田一は椿家を訪れた夜、英輔の金のフルートで彼の遺作『悪魔が来りて笛を吹く』を演奏する仮面の男を目撃します。
翌日、美禰子の叔父・玉虫公丸が密室で殺されました。
現場では、屋敷内を捜索していた警官たちによって、フルートケースから「天銀堂」で盗まれた宝石も発見されます。
金田一と美禰子は、英輔の足取りを確認するため、彼が事件当時にいたとされる神戸市の須磨に向かいます。
その物語が始まるきっかけとなったのは天銀堂事件で、1947年(昭和22年)1月15日午前10時ごろ、宝石店「天銀堂」で「保健所から伝染病予防のために来た」と称する男が、店員全員に毒薬を飲ませて殺傷し、宝石を奪ったというもの。
実在の事件である帝銀事件の被害者を郊外の銀行から銀座の宝石店に変更して借用しています。
帝銀事件は日本で初めてモンタージュ写真を捜査のために用いたことでも知られ、この点もこの作品に取り入れられています。
小説帝銀事件

白い霧が匍い上がっている峪間を望む京都市内のホテルのロビーで、R新聞論説委員の仁科俊太郎は、元警視庁幹部の岡瀬隆吉に出会います。
ひとりの外国人を見かけた岡瀬は、GHQで防諜部門を受け持っていたとの噂だった男のことを思い出し、「アンダースンですよ」「私は、また、あいつが日本に来たかと思った」と忌々しい表情で言うが、政府関係者に威しをかけ、占領中に悪名を流したアンダースンの思い出を話すうち、岡瀬は「帝銀事件のときでも、警視庁にやって来て…」と漏らします。
あわてて話題を変える岡瀬の様子に、仁科はアンダースンと帝銀事件に何か関係があるのかと疑問を抱きます。
仁科は新聞社の検察庁・裁判所を廻る係から、帝銀事件の捜査記録や検事調書、裁判記録、精神鑑定書、弁論要旨などの謄写版を取り寄せて読み耽ります。
被疑者の平沢貞通について、多くの間接証拠にもかかわらず、直接の物的証拠は薄弱で、マスコミが大衆感情を煽り、世論が平沢を極悪非道の兇悪犯にしたという感想を抱きます。
しかし、果たして帝銀事件にGHQが関与していたかどうかは確信が持てないまま、自分の無力さを呟いて終わります。
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