1月19日 勝海舟忌

今日は何の日

今日1月19日は勝海舟忌です。

勝海舟かつ かいしゅう)は、1899年(明治32年)1月19日に脳溢血により、自宅で亡くなりました。享年77歳でした。
勝海舟は、江戸時代末期の武士(幕臣)、明治初期の政治家で、山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれています。

幼名および通称は麟太郎(りんたろう)で、諱は義邦(よしくに)、明治維新後改名して安芳と名乗りました。
これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつあわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音の「安芳(あんほう)」に代えました。
海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものです。

9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間生死の境をさまよっています。
この時、父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願しました。
この事は後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったそうです。

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となりました。
16歳で家督を継ぎ1845(弘化2)年から永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開きました。
安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所し、1860年(万延元年)には咸臨丸で渡米し、帰国後軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設しました。
戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現しました。
明治維新後は、参議、海軍卿、その後伯爵、枢密顧問官となり政府の日清戦争には終始反対しました。

1873年(明治6年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援しました。
また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、同事件では政府の対応を厳しく批判するなど多くの社会事業に携わり、哲学館(現・東洋大学)や専修学校(現・専修大学)の繁栄にも尽力しました。
専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞しました。

1899年(明治32年)の今日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼みましたが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んで、すぐに脳溢血により意識不明となりました。
最期の言葉は「コレデオシマイ」だったそうです。

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