1月18日 振袖火事の日

今日は何の日

今日1月18日は振袖火事の日です。

1657年(明暦3年)のこの日(旧暦)、「明暦の大火」と呼ばれる江戸時代最大の火事が発生しました。

死者は10万人を超え、江戸城天守閣が焼け落ちたほか、多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失するなど、江戸中を焼き尽くすほどの大火事でした。
明暦の大火(1657年)・明和の大火(1772年)・文化の大火(1806年)は江戸三大大火と呼ばれています。

言い伝えによると事の起こりは3年前。
商家の娘おきくが偶然見初めた若衆に恋いこがれますが、恋は叶わず明暦元年1月16日、16歳で亡くなりました。
彼女の紫ちりめんの振袖は質屋、古着屋を介して2人の娘に渡るが、いずれも1月16日に亡くなってしまいます。

別名「振袖火事」といわれる所以は、供養を頼まれた本郷丸山の本妙寺ではわざわざ因縁の16日を外して18日に供養すべく振袖に火をつけましたが、突然吹いた強風により空に舞い、本堂に飛び込み、火が広がってしまいました。
それが江戸中を焼き尽くす大火の原因となったという言い伝えに由来しています。

しかしながら、大火の火元については、上記のような「振袖火事」とも呼ばれる「本妙寺失火説」、江戸の都市改造を実行するため幕府が放火したとする「幕府放火説」など諸説あり、現在も特定されていない。

明暦の大火

明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年1月18日から20日(新暦では1957年3月2日~4日)までに江戸の大半を焼いた大火災です。
かつてはこの年の干支から丁酉火事ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼ばれていました。

明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼びますが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられます。

外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説ありますが.万から10万と記録されています。
この大火で焼失した江戸城天守閣は、再建する意見があったが、幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため再建されることはありませんでした。
そして現在に至るまで江戸城天守閣は復元も含めて再建されていません。

関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もあります。

振袖火事の言い伝え

お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れしていまします。
ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向いてしまします。
梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまいます。
名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々でした。
しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を落とします。
両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりました。

当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていました。
この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなります。
ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれました。
寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡ります。
ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきました。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移しました。
たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となりました。

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