
今日1月12日は「桜島の日」です。
1914年(大正3年)のこの日、鹿児島県の桜島で、史上最大の大噴火が始まりました。

この大噴火は通称「大正大噴火」と呼ばれ、その後約1ヵ月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され、多量の溶岩が流出しました。
一連の噴火活動によって死者58名を出しました。

流出した熔岩は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで距離400m・最深部100mの海峡で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになりました。
また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石などを含む降下物は東京ドーム約1600個分の約32億トンに達しました。

噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認されました。
この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示しています。
大正大噴火
噴火によって降り積もった火山灰は、火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜島の他の地域でも、30cm以上の深さに達しました。

桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅しました。
耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住しました。
移住先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地でした。
また、溶岩流によって東桜島村の有村、脇、瀬戸及び西桜島村の横山、小池、赤水の各集落が埋没しました。
西桜島村の横山に所在していた西桜島村役場はこの溶岩流により埋没したため、仮の役場を西道に置き、後に藤野へ移転しました。

災害復興のために、桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始しました。
その後の桜島フェリーです。
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