1月3日 戊辰戦争開戦の日

今日は何の日

今日1月3日は戊辰戦争開戦の日です。

1868年(慶応4年)のこの日(旧暦)、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まりました。
名称はこの年の干支が「戊辰」であることに由来しています。

京都の鳥羽・伏見で、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本近代史上最大の内戦です。
この戦いで装備で劣る旧幕府軍は敗退し、1月6日夜、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は自軍を捨てて、大坂城から海路で江戸へ退却してしまいました。
一方、新政府軍は慶喜追討令を受けて江戸へ進撃を開始しました。

戊辰戦争は研究者によって、日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争であり、将来の絶対主義政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争と規定されています。

また以下の3段階があるとされています。
1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城
2.中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)
3.封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、士族反乱の先駆的形態(箱館戦争

この戦争は明治新政府の勝利で幕を閉じました。
国内に他の交戦団体が消滅したことにより、欧米列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなりました。

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)

鳥羽・伏見の戦いは、1868年(慶応4年)1月3日に京都南郊の鳥羽と伏見で発生した、明治新政府と旧幕府の間の武力衝突です。戊辰戦争の初戦で、新政府軍が勝利しました。

鳥羽・伏見の戦いの主な経過は次のとおりです。

大政奉還後の小御所会議で徳川慶喜が内大臣を辞退し、領地を返納したことに旧幕府が不満を募らせました。
その気に乗じ、薩摩藩士の西郷隆盛らが江戸市中を攪乱し、旧幕府側を挑発します。
会津、桑名を主力とする佐幕系兵力が、老中格大河正箕を総督として京都南郊の鳥羽・伏見から京都へ進撃します。
薩摩、長州を中心とする新政府軍と衝突し、装備にまさる新政府軍が幕府軍を1日で退却させました。
徳川慶喜は江戸へ敗走し、徳川追討の軍事行動が起されることとなり、戊辰戦争が始まりました

江戸城無血開城

江戸城の無血開城とは、1868年(慶応4年)に徳川幕府が新政府に戦わずして江戸城を明け渡した出来事です。
幕臣の勝海舟と新政府軍の参謀西郷隆盛の交渉により、市街戦を回避して平和的な権力移行が実現しました。
江戸城の無血開城は、戊辰戦争のターニングポイントのひとつとされていて、日本が江戸時代から明治時代へ移行する近代国家のスタートを切りました。

江戸城の無血開城について、主なポイントをまとめると次のとおりです。

1.徳川慶喜の助命徳川家の存続を条件に開城が行われました。
2.徳川家は田安亀之助(徳川家達)が相続し、駿河70万石へ移封されました。
3.徳川慶喜は水戸へ退隠しました。


100万都市・江戸は焦土とならず、インフラと巨大市場が残され、日本の急速な近代化を支えました

東北戦争

東北地方では、陸奥・出羽・越後の諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍に抵抗しました。
会津藩は旧幕府軍の中心となり、最後まで戦い続けましたが、激戦の末に廃藩となりました。
戊辰戦争の東北地方での主な戦いの様子は次のとおりです。

白河口の戦い: 白河小峰城を舞台に戦われました。
二本松城の戦い:福島県二本松市で戦われました。二本松少年隊の悲劇が語られています。
会津戦争:   会津若松城(鶴ヶ城)を舞台に、新政府軍と会津藩が激戦を繰り広げました。白虎隊と呼ばれる16~17歳の武家男子だけで構成された部隊も応戦しました。

箱館戦争

箱館戦争は、戊辰戦争の最後の戦いで、約7ヵ月におよんだ戦いは箱館市街は新政府軍が制圧し、五稜郭は旧幕府軍の本営となりました。

戦いの主な出来事

1.鷲ノ木で榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が上陸しました。
2.五稜郭は蝦夷島臨時政権の根城となりました。
3.福山城は猛攻を受けました。
4.鴎島沖では開陽丸が沈没しました。
5.乙部海岸で新政府軍が上陸しました。
6.二股口で激闘が繰り広げられました。
7.一本木関門付近で土方歳三が戦死しました。
8.箱館港では旧幕府脱走軍の艦隊が全滅しました。

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