12月25日 「昭和」改元の日

今日は何の日

今日12月25日は「昭和」改元の日です。

1926年(大正15年/昭和元年)のこの日、大正天皇が崩御され、皇太子であった裕仁(ひろひと)親王が新天皇に即位されました。

これと共に新しい元号「昭和」が制定されました。
「昭和」の由来は、中国最古の歴史書『書経』にある「百姓昭明協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)という一行から上下一文字ずつ取ったものです。
国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味があります。

戦前の旧祝祭日では、大祭日の一つ「大正天皇際」(12月25日)といって大正天皇崩御を祀る日とされていました。

当時、枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」がありましたが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定されました。
一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていました。

大正天皇

日本の第123代天皇(在位: 1912年~1926)。諱(いみな)、実名(本名)は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。
記名の代わりに身の周りの品につける印章であるお印は壽(じゅ)。
1879年(明治12年)8月31日誕生。明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)です。

生誕まもなく髄膜炎を患い、病弱で幾度も大病に罹いました。
幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学しますが、発達の遅れから中等科1年で中途退学。
8歳で貴族の世継ぎを意味する儲君(ちょくん・もうけのきみ)、11歳で天皇の位を継承する第一順位の皇太子となりました。
皇太子妃選定における混乱(大正天皇婚約解消事件)を経て九条節子と結婚し、後の昭和天皇をはじめ4人の皇子(皇男子)をもうけました。
また、皇太子時代には沖縄県を除く各道府県を巡啓したほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問しました。
1912年(明治45年/大正元年)7月30日、父・明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位されました。
憲政史上及び大日本帝国憲法下で初めて皇位を継承した天皇でした。

当時、健康を取り戻していたが、即位式の翌年頃から健康状態が悪化し、公務のみならず日常生活にも支障を来すようになりました。
1920年(大正9年)以降、病状が公表され世間に知られるところとなり、1921年(大正10年)には長男の皇太子裕仁親王が摂政に就任し、療養生活に入りました。
しかし、その後も体調は回復せず、1926年(大正15年/昭和元年)の暮れの12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺のため、47歳で崩御されました。

昭和天皇

日本の第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉~1989年)。諱(いみな)、実名(本名)は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。
記名の代わりに身の周りの品につける印章であるお印は若竹(わかたけ)。

1921年(大正10年)からの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務められました。
現在、日本で最後に摂政に就任した人物でした。
60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇です。
大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執られました。

現在、天皇に在位する第126代今上天皇(徳仁)の祖父。

光文事件について

東京日日新聞(現:毎日新聞)は、早くから「新しい元号は『光文』になるらしい」という情報を得ていたため、政府の公式発表の前に「元号は『光文』に決定」と報じました。
しかし、政府は元号を「昭和」と発表したため、この「特ダネ」は「大誤報」となってしまい、編集局主幹の城戸元亮(きど もとすけ)は責任をとって辞任しました。
「光文」は内閣の新元号の候補の中にあり、「元々『光文』に決定していたものが、新聞で先に報道されてしまったため、政府は『昭和』に急遽変更した」という噂が生まれました。

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