12月8日 太平洋戦争開戦記念日(対米英開戦記念日)

今日は何の日

今日12月8日は「太平洋戦争開戦記念日対米英開戦記念日)」です。

対米英開戦というと、とかく真珠湾攻撃がクローズアップされがちですが、その真珠湾攻撃に先駆け、日本軍が実施した南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦が行われました。
マレー作戦では当該戦争において全ての他の作戦に先行して攻撃が開始されました。

一方、真珠湾攻撃は、大日本帝国海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃です。
当時の日本側呼称は、布哇比(ハワイ)海戦、布哇比(ハワイ)作戦と言いました。

太平洋戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦開始に次いで実施されました。
当初はマレー作戦と「同時」の予定でしたが、一部の練度の低い戦隊に暗闇の中で編隊を組ませる危険を避けるために夜明けを待ち、攻撃予定が1時間半繰り下げられました。

これらの攻撃によって、すでに日中戦争を戦っていた日本は中華民国を含む英米・オランダなど連合国との全面戦争に突入しました。

マレー作戦

日本軍は南方作戦の実施を開戦と同時に行うことを計画していました。
南方作戦の目標は、香港、シンガポール、マニラの重要軍事拠点を覆滅して東亜における英米勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することでした。
南方作戦の攻略目標は、マレー、ジャワ、フィリピンの三つが柱になっていて、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とし、対米作戦を重視する海軍はアメリカ領のフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、アメリカとイギリスを分断できるという戦略的前提—を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張しました。
左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題でした。

結果、南方攻略作戦はマレーからの左回り作戦とフィリピンからの右回り作戦の二本建てでジャワを目指す案となって、南方作戦陸海軍中央統帥部における南方作戦の計画が策定され、マレー作戦は南方作戦陸海軍中央協定において作戦名称は「E作戦」と定められました。

この作戦は開戦前に宣戦布告を行う予定であった対米開戦とは異なり、宣戦布告無しで対英開戦することは予定通りでした。
この時の日本軍の開戦日の暗号は大本営陸軍部の佐瀬島龍三少佐考案の「ヒノデハヤマガタヒノデハヤマガタトス)」でした。

この作戦は1942年2月15日にそれを達成しました。

真珠湾攻撃

日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6ヵ月に及ぶ大東亜戦争・対米英戦(太平洋戦争)に突入しました。。

1941年12月2日、大本営より機動部隊に対して「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ヒトフタマルハチ)」が船橋海軍無線電信所から送信されました。
ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現:玉山)で、当時の日本の最高峰で標高3952mの山でした。

奇襲攻撃の結果、戦艦アリゾナなど戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して、攻撃の成功を告げる「トラ・トラ・トラ」(我奇襲ニ成功セリ)という暗号文が打電されました。

元々は、ワシントンで交渉していた野村・来栖両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていましたが、最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、事実上奇襲攻撃となってしまった。その後、アメリカ軍は「リメンバー・パールハーバー」を戦争遂行の合言葉としました。

戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失し、開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという作戦目的を達成しました。

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