
今日12月6日は「黄門忌」です。
水戸黄門として有名な水戸藩第二代藩主の徳川光圀が旧暦の元禄13年(1700年)12月6日に73歳の生涯を閉じました。
徳川 光圀(とくがわ みつくに)

徳川 光圀は、江戸時代前期の大名。常陸水戸藩の第二代藩主で水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男です。
江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫に当たります。
儒学を奨励し、彰考館を設けて「大日本史」を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。
後世では創作の題材になり「水戸黄門」として知られています。
「水戸黄門」の「水戸」とは領地である水戸のこと、「黄門」は官職である中納言・権中納言の唐名(漢風名称)です。
一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指します。
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、「快風丸」建造による蝦夷地(後の北海道石狩国)の探検などを行いました。
また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業も力を注ぎました。
さらに、徳川御三家の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持ちました。

水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に定府しており、帰国は申し出によるものでした。
常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は俗に「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになりましたが、財政悪化もあり、中・後期の藩主はほとんど帰国しませんでした。
その中でも光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最多です。
また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年間と、隠居してから没するまでの10年間を水戸藩領内で過ごしました。
光圀は言行録や伝記を通じて名君伝説が確立していますが、特に江戸時代後期から近代にかけて、白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が形成されました。
大日本史

大日本史(だいにほんし)は、日本の歴史書です。
江戸時代に御三家のひとつだった水戸徳川家当主徳川光圀によって開始されました。
光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成しました。
神武天皇から後小松天皇までの百代の帝王の治世を扱い、本紀(帝王の伝記)、列伝(個人の伝記)、志(分野別の変遷)、表(年表・人名表など)に分類して記述する紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)という一大歴史書です。
携わった学者たちは水戸学派と呼ばれました。

その大日本史は光圀死後の1715年(正徳5年)、第三代藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれていました。
質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っていました。
水戸黄門

水戸黄門(みとこうもん)とは、権中納言である江戸時代の水戸藩主・徳川光圀の別称かつ、徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった世直し(勧善懲悪)を描いた創作物語の名称です。
かつてはその物語は、専ら「水戸黄門漫遊記(みとこうもんまんゆうき)」と呼ばれていました。
実在の水戸藩主である徳川光圀は、国史編纂(大日本史)の為に史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っていますが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と、藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊したという記録は一切確認されていませ。
また、作中では徒歩で移動していますが、実際の光圀は馬などで移動していました。
光圀は同時代の伝記資料において名君と評され、庶民の間でも知名度は高かく、亡くなった時には「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」という狂歌が流行ったそうです。
水戸黄門漫遊譚の成立には、この様な名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響しているようです。
史実の光圀は、家臣の佐々十竹(佐々介三郎)らを各地へ派遣しており、彰考館総裁であった佐々と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が、物語の助さん・格さんのモデルと見られています。
コメント