12月4日 血清療法の日

今日は何の日

今日12月4日は「血清療法の日」です。

1890年(明治23年)のこの日、北里柴三郎とエミール・ベーリングが連名で破傷風とジフテリアの血清療法の発見を発表しました。

血清療法

血清療法とは、動物(馬など)に、毒素を無毒化・弱毒化した上で注射し、毒素に対する抗体を生み出させ、その抗体のある血清を患者に注射することで、体内に入った毒素を中和して無力化する治療法や予防法です。
例えば、ニホンマムシやハブの毒素に対する抗体を、馬に作らせ、マムシ等による咬傷の際、この血清を患者に投与して治療します。

北里 柴三郎

日本の医学者・細菌学者の北里柴三郎は、「近代日本医学の父」・「日本の細菌学の父」として知られ、感染症ペストの病原体であるペスト菌を発見や、破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献しました。

肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町北里)の庄屋の長男に生まれ、幼少期は、四書五教などの儒教を学びました。
1871年、18歳で古城医学所兼病院(現・熊本大学医学部)にて、オランダ人軍医マンスフェルトに師事し、医学の道へ。
1874年、東京医学校(現・東京大学医学部)入学し、在学中に予防医学を生涯の仕事とすることを決意し、卒業後は内務省衛生局に勤務します。
1885年にドイツ留学を命じられ、1886年からベルリン大学のコッホに師事します
1889年、世界初の破傷風菌培養に成功し、翌年には破傷風菌抗毒素を発見して世界を驚かせます。翌1890年(明治23年)さらにそれを応用して血清療法も確立しました。
1892年に帰国後、伝染病研究所を創立しました
1894年(明治27年)にペストの原因調査のため香港に赴き、ペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」とも呼ばれています。第1回ノーベル生理学・医学賞では、最終候補者(15名のうちの1人)となりました。

私立伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)の創立者・初代所長、土筆ヶ岡養生園(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創立者・運営者、私立北里研究所・北里研究所病院(現:学校法人北里研究所)の創立者・初代所長、慶應義塾大学医学科(現:慶應義塾大学医学部)の創立者・初代医学科長、日本医師会の創立者・初代会長等、医学団体や病院の設立など社会活動も積極的に行いました

ちなみに2024年発行の新1000円札の肖像になりました。

エミール・ベーリング

ドイツの医学者・実業家のエミール・ベーリングは、「ジフテリアに対する血清療法の研究」で、1901年(明治34年)の第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
北里は破傷風を、ベーリングはジフテリアを研究し、特にジフテリアの場合はエミール・ルーのジフテリア毒素の発見もあって、血清療法の進展にとって画期的なものとなり、後の第1回ノーベル賞受賞に繋がりました。
ただし、ベーリングのジフテリア血清療法は、北里の破傷風血清療法を基にしたものであり、ベーリング本人も北里あっての受賞であることを認めています。

トーゴーとバルト

1925年アラスカでジフテリアが猛威を振るったとき、犬ぞりで血清を届けた話が有名です。

そのエピソードは、以下のようなものです。

1925年の冬、アラスカ北端のノーム市にジフテリアが発生し、血清を市に運ぶ必要がありました。
しかし低気圧の接近のため風速40mの猛吹雪がアメリカからアラスカの陸路を断っていました。
救助隊は200頭のイヌぞりチームを作って16頭1チームで100kmをリレーする方法で、全行程1100kmを輸送し、市民を伝染の危機から救いました。
困難を極めたこの行程の、最も困難であり、最も長距離の区間を走りぬいたのはリーダー犬トーゴーのチームであったが、そのチームから血清を受け継ぎ、最後の区間を輸送したチームのリーダー犬がシベリアン・ハスキー(犬種、アラスカン・マラミュートという説も)のバルトでした。
その功績を称え、現在ニューヨークのセントラルパークにバルトの銅像がります。

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