10月25日 島原の乱の日

今日は何の日

今日10月25日は「島原の乱の日」です。

1637年(寛永14年)のこの日、過酷な年貢の取立てやキリシタン弾圧に耐えかねた島原の領民が代官・林兵左衛門を殺害し、「島原の乱」が勃発しました。
島原の乱とは、1637年(寛永14年)から1638年(寛永15年)にかけて肥前島原(現在の長崎県)と天草島(現在の熊本県)のキリスト教徒を中心とした農民が起こした一揆のことです。

江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、幕末以前では最後の本格的な内戦です。「島原・天草の乱」「島原・天草一揆」とも呼ばれています。

元々島原はキリスト教徒が多く暮らす町でしたが、松倉重正が藩主となってからは島原城の改築などを理由に厳しく年貢を取り立て、島原藩の住民へ多大なる負担を強いていました。
当時、場所によって納める年貢の量は決まっていましたが、必要以上の年貢を取り立てていました。
さらに1634年は悪天候から凶作が続き、飢饉が起こりましたが、重正の跡を継いだ勝家もあらゆる税を作って、容赦なく重税を取り立てます。
また多くの記録によると勝家は年貢を納められない農民や村の責任者である庄屋から人質をとりあまりにも残酷な方法で処刑を行っていたそうです。

一揆軍の総大将はキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎益田四郎時貞)でした。

この乱は従来、信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出てきています。
というのも鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まったからです。

江戸幕府は島原の乱がキリスト教徒の暴動によって起こったとして、キリスト教を今まで以上に弾圧し始めます。
キリスト教はすべての人が平等という考え方であり、身分制度のある江戸幕府に対して庶民から反感が生まれるのではと幕府は恐怖を感じていました。
それ故、キリスト教徒は厳しく処罰されることとなりましたが、それでもこっそりとキリスト教を信仰する者はおり、その人たちのことを隠れキリシタンと言われています。
江戸幕府はその隠れキリシタンを発見するために密告を奨励しようと報酬を儲けたり、イエス・キリストや聖母マリアが描かれた板を踏ませる踏み絵が行われました。
さらにキリスト教徒に対しては残酷な拷問が多く行われ、江戸時代の長い間、弾圧は続きましたが、それでも島原・天草の地にはたくさんのキリスト教徒が隠れていたと言われています。

そして島原の乱が与えたもっとも大きな影響は鎖国政策の開始です。
鎖国政策は江戸幕府が行った諸外国への政策のことで1639年から1854年と200年以上続くこととなりました。

鎖国政策の目的としては幕府とは異なる考え方であるキリスト教を禁止すること、幕府が貿易を管理することを目的として行われました。
またキリスト教が入ってくることを防ぐために日本人の海外渡航も禁止外国人の居留地も限定されていました。
そしてキリスト教をもたらした宣教師の多くはポルトガルから来ていたため、1639年に江戸幕府はポルトガル船を追放し、このときから鎖国政策は始まったと言われています。

天草 四郎(あまくさ しろう)

江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆軍の中心人物とされています。
本名は益田 時貞ますだ ときさだ)で、洗礼名は当初は「ジェロニモ」でしたが、のちに「フランシスコ」に改めています。
生まれながらにしてカリスマ性があったと伝わっています。
また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養もあったようです。
小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立神格化された人物でもあります。

そして島原の乱の戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わっていましたが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないという説もあります。

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